ヤッスホユック

大村 正子 アナトリア考古学研究所研究員

第6次ヤッスホユック発掘調査(2014年)

第6次発掘調査終了時全体写真[クリックで拡大]

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第6次ヤッスホユック発掘調査は、2014年9月4日から10月31日までの8週間実施されました。ただし、発掘作業開始に先立ち9月1日〜3日には昨年架設した保護屋根を外す作業が、発掘作業終了後11月1日〜7日にはシーズンオフに風雨、乾燥等から遺構を護るため、保護屋根の架設作業が行われました。

ヤッスホユックの発掘調査は日本学術振興会科学研究費基盤研究(A) (25257013 H25~H29)の助成を受けて行われています。

昨シーズンまでに中央8グリッドの王宮址ではほぼ床面まで掘り下げていますので、その調査は一旦中止し、シーズン中も保護屋根を架けたままの状態で残し、その東西のE8/d8, e8, f8, g8, E9/d1, e1, f1, g1の8グリッドにおける調査を継続しました。前期青銅器時代末期の王宮址の広がりの調査をさらに進めるためには、その東西のグリッドにおける掘り下げが必要です。2014年度はそれらのグリッドにおける鉄器時代の調査とその遺構の取り外しを中心に調査を進め、王宮址のレベルまで掘り進めることを目差しました。この遺丘頂上中央部Area 1の 8グリッドにおける鉄器時代の調査と併行して、遺丘南東縁部をArea 2として新たな発掘区C10/i3, j3, i4, j4の4グリッドを設け、調査を行いました。Area 2での発掘調査は、ヤッスホユックの編年をより正確に把握することを目的としています。Area 2でも表層から後期鉄器時代の層の発掘調査となりました。さらに、9月には発掘と併行して、遺丘の北裾野でレーダーによる地中探査を行いました。


2014年度の第6次調査の最も大きな成果は以下の2点です。
1.紀元前2千年紀前半の文化層を検出したこと。
2.レーダーを用いた地中探査により『下の町』の広がりを確認したこと。

グリッド図[クリックで拡大]

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2013年までの発掘調査では、遺丘中央部 Area 1で鉄器時代と前期青銅器時代の2つの文化層だけが確認されていました。鉄器時代は、現在の所、紀元前4世紀から7世紀の後期鉄器時代と、紀元前8世紀の中期鉄器時代に相当すると考えられます。 前期青銅器時代の大遺構(王宮址)は、C14年代測定で紀元前2260−2135年という年代が出されており、前期青銅器時代の後半と考えています。しかし、今シーズン終盤に、鉄器時代と前期青銅器時代の文化層の間に、非常に脆弱ではありますが紀元前2千年紀前半すなわち中期青銅器時代の文化層が確認され、編年を修正する必要が生まれました。

地中探査風景[クリックで拡大]

地中探査風景
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紀元前2千年紀前半の中期青銅器時代の文化層の存在によって、これまでに出土していながら、ヤッスホユックの層序に明確に位置づけることができなかった幾つかの重要遺物、すなわち 鉛製のライオン像も、印影付封泥も、青銅製の印章もその存在した文化層を確認できることになります。また、遺丘の北裾野で地中探査により『下の町』の広がりが確認できたことにより、その遺構群が紀元前2千年紀第1四半期の商人達が居住したカールムもしくはヴァヴァルトゥムである可能性がより高まりました。この2つの成果を合わせて考えると、紀元前3千年紀から2千年紀にかけての遠隔地交易と域内交易を支え得るだけのシステムをもった都市国家が存在していたことを明らかにするという、ヤッスホユックの発掘調査の目的の一つに近づくことができたと考えます。

以下に、発掘調査についてやや詳しく報告致します。

1. Area 1

1.1. 第Ⅰ層 : 鉄器時代 

1.1.1. 後期鉄器時代

第2建築層: 今シーズン新たに発掘を開始したE9/f1グリッドでは、第1建築層の断片的な壁の下に、第2建築層の遺構が検出されました。2度、3度と改築改修が施されていますが、その最も古い遺構としてR86とR87が検出されました。出土した土器の多くは、この彩文土器片に代表されるようなフリギアの土器です。

E8/f1グリッドI-2層[クリックで拡大]

E8/f1グリッドI-2層
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クラテール形彩文土器[クリックで拡大]

クラテール形彩文土器[クリックで拡大]


また、西側のE8/d8とE8/e8グリッドの間に設けられていたセクションボークの掘り下げに伴い、2013年度にE8/e8で調査されたR52の連続部の調査を行いました。一列の日干し煉瓦による隔壁とその床面が確認され、その床面上に土製の錘を4点検出しました。織機の錘ですが、アナトリアでは、紀元前2千年紀、1千年紀に主に焼成粘土製のものが多く出土しています。 また、 同じ床面上に浅鉢形の黒色磨研土器の破片が検出されています。この黒色磨研土器は、おそらく紀元前5−6世紀という年代付を与えてくれます。

E8/d8-E8/e8グリッド I-2層 R52[クリックで拡大]

E8/d8-E8/e8グリッド I-2層 R52[クリックで拡大]

この西側の4グリッドのうち、E8/d8を除く3グリッドでは、主に第2建築層の遺構の取り外しを行い、この第2建築層の下に鉄器時代のピット群の層が存在することを確認しました。これらのピットからは、一部中期鉄器時代のものと思われる土器片も出土していますが、概ね後期鉄器時代のもので、前期青銅器時代の焼土を大きく壊しています。また、紀元前5−4世紀後期鉄器時代の北シリアタイプのものとみられるフィブラも検出されました。

浅鉢形黒色磨研土器片[クリックで拡大]

浅鉢形黒色磨研土器片[クリックで拡大]

青銅製フィブラ[クリックで拡大]

青銅製フィブラ[クリックで拡大]

第3建築層: 鉄器時代の中心的な遺構は、第3建築層の大遺構です。昨年度までにある程度の平面プランを確認することができましたが、今年度は、第2建築層のR87の床面下にみられた敷石遺構が、R87下でE9/f1グリッドの広い範囲に残っていることを確認しました。

E9/f1グリッド I-3層 敷石遺構[クリックで拡大]

E9/f1グリッド I-3層 敷石遺構[クリックで拡大]

この第3建築層の建物群の上部構造はほとんどが失われており、検出されているのは、ほぼその礎石部分だけですが、その特徴は都市の全体計画のもとに建造されていること、最も高い部分に建てられた中心の建物を取り囲む様に、全体プランがあること、そして、 中心の建物と周辺建物の間に回廊状の敷石遺構を伴っていることです。この建物と比較できるのは、カマン・カレホユックⅡa層の回廊遺構であろうと思われます。

I-3層平面図 後期鉄器時代[クリックで拡大]

I-3層平面図 後期鉄器時代
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この回廊は、中央の建物のその真ん中辺りから、現在も遺丘頂上へのアクセスする坂道に繋がっています。 都市を囲む市壁は、遺丘の稜線部分でその積石が一部露出していますが、その切れ目がそのアクセス部にあり、城門もしくは市門があったと思われます。

E9/e1グリッド W36断面[クリックで拡大]

E9/e1グリッド W36断面[クリックで拡大]

E9/d1グリッドとE9/e1グリッド間のセクション壁見られるW36ですが、 わずかに残っていた上部構造と敷石を外すと、即ち床面下に、緻密に石を詰め込んだ礎石部分が検出されました。この礎石部分は、上部壁よりも50cm余り幅広です。この壁は下層の巨大壁を利用することによってさほど深く掘り下げずに建造されていましたが、E9/d1グリッドのW171では1m50余りの深さで、また、E9/g1グリッドではW73, W74, W139, W148では、2mをこす深さで掘られた溝に大中の石を詰め込み、礎石の最上端では比較的小さい石を詰めて平衡をとり、その上に上部壁が建造されていました。場所により異なる礎石部分の深さは、より古い層の遺構やその埋土の状況に応じて深さが決められていたようです。また、上部構造が無い床部分でも、所によっては床面下に併行する壁と壁を繋ぐように礎石が存在することがあるなど、この第3建築層の建築群は、全体プランに沿って入念な計画の下に建造されたものと見られます。

両耳杯[クリックで拡大]

両耳杯
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ここで、問題はこの大遺構を中心とする都市が一体誰によって建てられたかということですが、残念なことに、それを明確に教えてくれる遺物は未だ見つかっていません。土器から見れば後期鉄器時代の遺構ですが、リュディアと関連付けられている特徴的な黒色磨研土器が、この大遺構を壊しているピットからも、これよりも下層の遺構からも出土しており、この遺構もおそらく紀元前5−6世紀のものと考えられます。さらに、この大建築の最終時期に付加されたと見られる掘込み式の部屋R72の床面で検出された両耳杯が手掛かりとなるかもしれません。同質の両耳杯が後の第2建築層を発掘する際に出土していますが、共に良質の胎土で成形された薄く均一な焼成の両耳杯で、その形と磨研からアケメネス朝ペルシャの金属器との関連が推定されています。

1.1.2. 中期鉄器時代

E8/d8グリッドで中期鉄器時代の掘込み式建物R59を取り外しました。この時期の幾つかの土器片や遺物が検出されましたが、新たな遺構は検出されませんでした。特徴的な土器及び土器片としては浅鉢形の彩文土器やシルエットの鹿文土器片が上げられます。浅鉢形土器はR59の東側外部に検出されたピットから出土したもので、アリシャルⅣ式土器の鹿文土器片は第3建築層の大遺構に属する壁W139を外す際に出土したものです。R30を構成する W139, W73, W74の礎石のための溝は中期鉄器時代に位置づけられる大ピットP34を深く切り込んでおり、このピットに関連する土器片が撹乱により出土したものと考えられます。

浅鉢形彩文土器[クリックで拡大]

浅鉢形彩文土器[クリックで拡大]

鹿文土器片[クリックで拡大]

鹿文土器片[クリックで拡大]


1.2. 第Ⅱ層: 中期青銅器時代

E9/e1グリッド R91(W226W232, W233, W234)[クリックで拡大]

E9/e1グリッド R91(W226W232, W233, W234)
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東側のグリッドE9/e1で鉄器時代の第3建築層の建物の礎石を外すと、比較的大きな石を並べて築かれた非常に幅の広い壁が、前期青銅器時代の焼土の上に検出されました。この続きが、E9/d1グリッドでも検出され、W226に対応する壁W197とこの2つの壁の間に床面が確認されました(R89)。R89とR91は、E8/e10グリッドで断片的に検出された後期鉄器時代の大形遺構 (第Ⅰ層第4建築層)よりも下層に位置し、かつ、これまで第Ⅱ層としてきた前期青銅器時代の王宮址を壊している、即ちそれよりも新しい遺構であることが明白になりました。その発掘過程で出土した土器片及びR89の床面上の炉床として敷かれていたかとも思われるひどく焼けた土器片は、何れも紀元前2千年紀前半のもしくは初頭の赤色スリップ土器片が多く含まれ、鉄器時代の土器片は見られませんでした。また、素焼の小さな鉢形土器の破片もこの時期を特徴づけています。

すなわち、これまで 第Ⅰ層、 第Ⅱ層としてきた2つの文化層の間にもう一つの層が出土し始めました。しかも紀元前2千年紀の前半もしくは初頭に属すると考えられる赤色磨研土器を伴っていました。したがって、Area 1で昨年まで考えていた編年を修正し、紀元前1千年紀の鉄器時代の文化層の下に、2千年紀前半もしくは初頭に位置づけられる中期青銅器時代の文化層があり、その下に3千年紀後半の前期青銅器時代後半の王宮址のある文化層が存在すると考えることができそうだということになりました。すなわち、この新しく検出した層を第Ⅱ層とすると、Area 1における層序は第Ⅰ層:鉄器時代、第Ⅱ層:中期青銅器時代、第Ⅲ層:前期青銅器時代ということになります。

2. Area 2

2.1. 第Ⅰ層: 鉄器時代

表土を剥ぎ、鉄器時代後半の重層する遺構を確認しました。これらの建物は、古い建物を一部利用したり、いわゆる改修、改築された後が窺えるなど、複雑な遺構でしたが、上層部から順番に外しながら、おおよそ5回の立て替えを確認しました。これらの遺構は、その建築形態から、Area 1における第Ⅰ層の第2建築層に平行すると思われます。

C10/i3, j3, i4, j4グリッド 発掘終了時[クリックで拡大]

C10/i3, j3, i4, j4グリッド 発掘終了時[クリックで拡大]

最も遺丘の縁の部分では、城壁の上に建てられたと思われる遺構が出土し始めています。

時間的な制約もあり、今シーズンは、この最も上層の建築群を調査したところで終了しました。

このArea 2では、後期鉄器時代の灰色土器、彩文土器の他、ガラス製ビーズ等が出土しています。

3. 遺構保存

前期青銅器時代王宮址壁の修復風景 E8/e10グリッドW47[クリックで拡大]

前期青銅器時代王宮址壁の修復風景 E8/e10グリッドW47
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ヤッスホユックの大きな課題の一つは、前期青銅器時代の王宮址の保存です。この王宮址は既に発掘された部分だけでも800㎡ありますが、磁気探査の結果からみると、さらにこれが東西南北に広がっており、少なくともその倍以上の広さで残存していると見られる大遺構です。大火災を受けたこの王宮址全体に渉り、高い所では2m以上の高さで残存する日干し煉瓦と泥漆喰の壁を保存することはなかなか容易なことではありません。毎年気温や湿度のデーターを取り、土の分析なども始め、そろそろ本格的な保存事業を開始すべく、専門家に相談をしている所ですが、その間にも、壁は少しずつ崩れていきます。もちろん保護屋根を架けていますが、部分的な補修を行う必要が常にあります。その補修には崩れた煉瓦や石を積み直し、やはり崩れた泥漆喰(化粧土)を篩にかけ、つまりオリジナルの材料を使い、それに石膏を混ぜで補強する方法を採っています。



第6次ヤッスホユック発掘調査(2014年)途中経過

ヤッスホユック 第1エリア

ヤッスホユック 第1エリア

9月1日に開始した第6次ヤッスホユック発掘調査は、早くも半ばを過ぎ、犠牲祭のため5日間の中断を余儀なくされましたが、天候にも恵まれ、順調に進んでいます。遺丘中央部の第1エリアの中央8グリッドでは、昨シーズンまでに発掘した第Ⅱ層前期青銅器時代末期の王宮址を、保護屋根を架けたままの状態で保存し、これをはさむ東西4グリッドずつ8グリッドで発掘調査を継続し、第Ⅰ層鉄器時代の遺構の取り外しと第Ⅱ層への掘り下げを試みています。今シーズン新たに開けた遺丘南東縁部の第2エリアの4グリッドでは、 第Ⅰ層鉄器時代の遺構を発掘中です。

ヤッスホユック 第2エリア

ヤッスホユック 第2エリア

後期鉄器時代彩文土器片

後期鉄器時代彩文土器片

9月4日から17日まで行われた遺丘北側裾野におけるレーダー探査では、昨シーズン検出した遺構群の連続部を確認し、『下の町』の存在がより確かなものとなりました。

調査は11月1日まで継続されます。