ヤッスホユック
大村 正子 アナトリア考古学研究所研究員
第10次ヤッスホユック発掘調査(2018年)
第10次ヤッスホユック発掘調査は、2018年9月17日から11月7日の間、実施されました。
2018年の発掘区と調査目的
2009年から2017年までの9年間に遺丘頂上部(Area 1)で行った発掘調査では、第Ⅰ層:鉄器時代(BC1千年紀)、第Ⅱ層:中期青銅器時代(BC2千年紀前半)、第Ⅲ層:前期青銅器時代(BC3千年紀)の3文化層を確認しました。第Ⅰ層:の鉄器時代は、現在までのところ少なくとも13建築層からなり、後期鉄器時代、中期—前期鉄器時代の遺構が確認されています。その下の第Ⅱ層の中期青銅器時代では、2m近い幅の礎石が出土し、大型建築が存在したことが確認されています。第Ⅲ層の前期青銅器時代に年代付けられる王宮址を覆い包む火災層は、発掘された1600㎡の範囲を超えて、さらに東および南北に広がっているとみなされます。また、この火災層の下にはさらに第2の火災層が存在することが、すでに観察されています。
また、発掘調査と並行して行ってきている地中探査(GPR: Ground Penetrating Radar Survey)の成果の一つとして、遺丘北裾野に遺丘を取り囲むように居住区が存在することが確認されています。この居住区は、周辺の表採土器片からBC2千年紀前半に、遺丘では第Ⅱ層の中期青銅器時代と同時代に年代付けられる可能性が高いと推察されていました。
2018年度は、このGPRの調査結果に基づき、遺丘北裾野において発掘調査を開始しました。この発掘調査の目的は、GPRにより確認された居住区の正確な年代付けを行うとともに、遺丘の第Ⅱ層と併行するものかどうかを確認することであり、ヤッスホユックにおいてBC2千年紀の「下の町」が確かに存在したことを証明することです。
2018年度は、「下の町」の発掘に焦点を合わせ、遺丘頂上部での発掘調査は行いませんでした。
2018年度の発掘調査は『下の町 (LC)』I8/a8, I8/a9, I8/a10, I8/b6, I8/b9, I8/b10, I8/c5, I8/c6, I8/c7, I8/d7の10グリッドで行いました(Resim 2, 3)。I8/b4 と I8/c4 の2グリッドでは表土剥ぎとクリーニングのみを行いました。いずれのグリッドも10mx10mです。
『下の町』の発掘調査 (Resim 4)
2018年度『下の町』の10グリッドで行った発掘調査では、最上層の2グループの建築遺構群を検出しました。これらの遺構群は、さらに東西に延び、遺丘の北裾野を広く取り囲む居住区の一部であると考えらます。1)より良い保存状態で検出された西側の遺構群は3期にわたり修復、建て替えが行われた痕跡を残していますが、この遺構群の層の下に、さらに、2層存在することが、観察されました。2)東側の遺構群はその保存状態はあまり良くないものの、重層する3建築群が確認されました。
出土した土器は主にBC2千年紀前半のもので、キュルテペ・カニシュやボアズキョイ・ハットゥシャの遺物に比較すると、アッシリア商業植民地時代および古ヒッタイト時代の土器に類似品が見られました。
1) I8/b6, I8/c6, I8/c7, I8/d7 グリッドで検出された遺構群:
この区域で発掘された最上層の遺構群は、かなり広範囲にわたり存在したと推定されます。第2、第3層はまだ本格的に発掘しておらず、来季の発掘に期待するものです。第1、第2層は火災を受けてはいません。
I-1層:この区域で発掘された建築遺構は、南西—北東方向の軸上に、隣接もしくは間の壁を共有する(W6, W9, W16, W21, etc.)形で建てられた多部屋構造の建物から成っています。全部で13の部屋が発掘されたこれらの建物は、少なくとも2度の改修が為されていたことが観察されます。Fig. 5に示されている部屋及び壁のうち、R24のW35a, R9とR11 間の W9の北半分の下層の石列、R9のW11の下層の石列、W34, R21, R22, R6の西壁W16の下層の石列、そしてこの石列からR11内へ突き出しているやや大きめの石は、この遺構の古い時期に属するものです。
この古い時期に属する壁の上に築かれた石列および壁は、改修後の新しい層に属するものです。この層ではプランに大きな変更は加えられていませんが、R21, R22, W34を覆っていたW8 とW13から成るR3 と R4もこの新しい方の層に属するものです。また、R25内でわずかに検出された漆喰の塗られた床面以外に、真に床面と呼べるものは確認されませんでした (Resim 6) 。ただし、R3, R4, R6, R7で大型の甕の破片が、おそらく壊れたその場で発見された面は、R25の床面と共に、これらの建物の改修後の生活面とみなすことができます(Resim 7)。また、R7の北東隅に確認された、小型の平たい石を使って構成された楕円形の遺構(Ins2)も、その機能は不明ですが、部屋の生活面を示唆するものです(Resim 8, 9)。
I8/c7グリッドの南辺に検出された大型の平石で囲まれた、矩形の煉瓦製炉床H2 (Resim 10)も、R7の床面/生活面と同レベルで確認されました。一般に小型の脆い石が詰められた壁は、約45—50 cmの幅で、床面のレベルからさらに40-50 cm深くから礎石が築かれていました。R8, R9, R11, R14, R21, R22では、壁の側に大型もしくは中型の甕や壺が出土しました。この甕の多くは、部屋の床に掘られた穴や窪みに据えられており、当時の床面もしくは室内では、胴部から上、もしくは口縁部のみが見えていたと推察できます(Resim 5)。
I8/c6グリッドの北西隅に検出された小石が敷かれた部分は、この建物の外部生活面で、建物間の通路もしくは路地であったと考えられます。この路地はI8/c5 および I8/d7グリッド方向へすなわち東西にさらに連続していると見られます。
この層から出土した土器は、主にろくろ製で、良質の胎土が使われ、赤色スリップがかけられており、十分磨研されているものが多く見られました。大型の甕型土器のほか、中型土器でも卵型胴部を持つ壺型土器や嘴形注口月水差し土器が見られ、また小型土器で三角把手付鉢形土器(Resim 11)、尖底杯等も出土しています。特に、R7の南東部でW11のすぐ前の床面レベルで、7個体がまとまって出土した両耳付尖底杯(Resim 13)は、キュルテペ・カニシュ・カルム第Ⅱ層で報告されているものに近似しています。また、R14で検出された動物(馬)形レリーフ付土器片(Resim12)や三日月形土製錘も注目されます。中でもスタンプ型印章の印影をもつ三日月形土製錘片(Resim 14)は、この層を年代づける手がかりとなり得るものです。また、青銅製の鏨/鑿(たがね/のみ)(Resim 15)、ピン、装飾付紡錘車等、保存状態が良いものが発見されています。
R23の北西隅で本来の壁W37とW38の上部でこれらの壁と同方向で、ここで壊れてしまっているものの、おそらくより西方へ延びていたと考えられる壁の破片は、ここで検出された最後の(2度目の)改修の痕跡であると考えられます。
I-2層:上述の遺構群の下に、特にR9, R11, R21 ve R6の壁の石列が浮き上がってしまったレベルで見られ始めた石列(Resim 16)があります。これはまだ明確なプランを示してはいませんが、おそらくⅠ-1層の建築により破壊された下層の遺構の痕跡であると考えられます。また、I8/d7グリッドの南辺近くで、W37の東への延長線下に検出された石列も(Resim 17)、この層に属するものと考えられます。
I-3層:I8/c6グリッドのR9とI8/b6グリッドのR6の床面下で、Ⅰ-2層の石列に切られている堆積土中に焼けた日乾煉瓦の破片や炭化物の小片が混じった焼土が観察され始めました。I8/d7グリッドの北西隅でもW48よりも低い層で、同様の焼土が観察され始めました(Resim 17)。来シーズンの発掘調査により、明らかにできると考えます。
2)8/a8, I8/a9, I8/a10, I8/b9, I8/b10 グリッドで検出された遺構群:
I-1層:R1(W1, W2, W3, W19), R2(W1, W2, W4), R12(W2, W3, W18, W19), R16(W4, W46, W47), R17(W24, W27, W28), R18(W25, W26), R19(W31, W32), R26(W43, W44, W45) ve R27(W29, W50, W51).
R1, R2, R12, R16 ve R17から成る多室構造の建物は、上述の西側グリッドで発掘された遺構群と同様の方向性、同様の特質を持っており、ほぼ同時期のものと考えられます。R18, R19, R26 ve R27は、先の多室構造の建物よりやや西側に位置する単室構造の建物ですが、その壁の構造や方向性から、やはり同時期のもの考えています。
R1, R2, R16, R17の内部では床面は検出されませんでしたが、R12の北西隅で、わずかに残存する石灰で塗装された床面が検出されました。また、R2からR16へと、R16からR17へ抜ける出入り口が確認されました(Resim18)。
これらの建物の覆土中から出土した鎚頭(Resim20)、天秤ばかり用皿(Resim 21, 22)やピン等の青銅製品は、非常に保存状態の良いものでした。
I-2層:I8/b9グリッドの南東隅で発掘された方形のR28(W20, W52, W53, W54)は、R16 ve R17の直下に検出されました(Resim23)。この建物に使用されている壁石は、上層のものに比べかなり大型で上面が平坦なものです。東壁W20はW52と交わっていたと推察される位置からさらに北に延びているのですが、I8/b10グリッドでピットP1によって切られてしまっています。
I-3層:I8/b9グリッドで断片的に検出されたW55, W56, W57 ve W58からなる建物(Resim24)については、まだ詳細な調査を行っておらず、来季の調査が待たれます。
これらの壁の発掘中に検出された手捏ねの片耳杯(Resim25)は注目されます。
地中探査(GPR: Ground Penetrating Radar Survey)
2018年度における地中探査は、例年同様、福田勝利さん(京都大学准教授)により実施されました。実施区域は、遺丘頂上部の北側で、2017年度に探査が行われた区域の西側です (Resim 26)。GPR地図では、遺丘頂上部で大規模な礎石が発掘されている後期鉄器時代の大遺構の延長部が明示されています。さらに、そこには約20m幅の空隙が2箇所確認できます。これらは、おそらく居住区あるいは主要建造物を取り巻く街路である可能性が高いと考えられます。