ヤッスホユック
大村 正子 アナトリア考古学研究所研究員
第11次ヤッスホユック発掘調査(2019年)
第11次ヤッスホユック発掘調査は、2019年9月2日から11月8日の間、実施されました。
2019年度の発掘区と調査目的
ヤッスホユックでは、毎シーズン発掘調査に平行してレーダーによる地中探査(GPR)をおこなっています。その結果、遺丘の北側裾野に集落が存在することがわかりました(Fig.1)。 このGPR調査に基づき、2018年に遺丘の北側裾野の国有化された区域で発掘調査を開始しました。この「下の町」の居住区は、2009年から2017年に遺丘頂上部で(Area1)で行われた発掘調査により確認された第II層:中期青銅器時代(紀元前2千年紀の前半)に属する建造物と同時期であると考えられます。
2019年度ヤッスホユック発掘調査の目的は、 2018年に遺丘の北側裾野で開始した「下の町」の発掘調査を継続し、第1層の下のより古い居住址を明らかにすることでした。
2019年度も2018年同様、「下の町」の発掘調査に焦点をあわせ、遺丘頂上部での調査は行ないませんでした。発掘終了後「下の町」の発掘区はジオテキスタイル素材のシートで覆うことで保護し、今シーズンの調査を終えました。
2019年度に発掘調査を行なったグリッドは、下の町(LC):I8/b6, I8/b7, I8/c5, I8/c6, I8/c7, I8/d6, I8/d7, I8/d9, I8/e8 の9グリッドです (Fig. 2)。
下の町(LC)の発掘調査
2018年に「下の町(LC)」エリアの10グリッド(各グリッド10x10㎡)で行われた発掘調査では、最上層に属する2つのグループの建築遺構が明らかになりました。 これら2つの建築遺構グループは、遺丘の北側裾野を南西から北東に取り巻く広い居住区の一部です。 2番目のグループの建築遺構(Fig. 4)は保存状態があまり良くありませんが、少なくとも3つのフェーズが確認されています。
2019年度は、2018年にI8/b6, I8/c6, I8/c7, I8/d7で出土した第1グループの建築遺構(Fig. 3)の下に存在すると推察された遺構群を検出するため、上記の7グリッド(I8/b6, I8/b7, I8/c5, I8/c6, I8/c7, I8/d6, I8/d7)で調査を継続しました。 I8/d9、I8/e8では、これらの建築が東北に続いていることを明らかにするため、最上層の発掘を開始しました。
ヤッスホユック「下の町」には4建築層が確認されました
2018年に発掘された第1建築層の遺構は、2つのフェーズに分けられました。そして、古いフェーズの床面下に、より古い建築層の壁が観察されました。 2019年、これらの第1建築層の遺構の内部を精査した後、それらの壁を取りはずし、床面下に観察された壁を追跡しました。これらの壁で構成される複数の部屋から成る建物は、第1建築層の遺構の下にほぼ同じ方向に建てられていることが明らかになりました。これらの建物は隣接し一つの纏まりを形成しているようです。 この遺構群と第1建築層(2時期から成る)の遺構群の間には、大型の平石による敷石遺構が検出されました。つまり、第1層の遺構群の下に平石敷きの床が発見された第2建築層、複数の部屋から成る建築遺構群で構成された第3建築層と、断片的に残存する壁が観察された第4建築層が、ヤッスホユックの下の町で確認されました。これらの遺構群の北端では、砂利敷の道路が検出されました。この道路遺構も4層から成っており、建築遺構群の層位とは後述するように関連づけられます。
第1建築層の遺構(Fig. 5、6、7)
2018年の発掘調査を継続し、第1建築層の建物の壁をI8/d6、b7、c5グリッドで検出しました。
I8/d6では、このグリッドのR9、R24、およびW48の連続部が明らかになりました。今シーズン発掘が開始されたI8/b7グリッドでは、R14の延長部とR14と接するR37、更にこれらの遺構の南に同時期のR34とR39が確認されました。いずれの遺構でも床面を確認することはできませんでしたが、R37内部では、床面下に充填されていたとみられる土器片と小礫からなる層が出土しました。この礫層は、昨シーズンI8/c7で確認された炉H2とその周りに敷設された平石の下にも連続しており、H2はR37と同時期に使用されていたことは明らかです。
I8/c5で発掘されたR35、R36、R42でも、建物の床面は検出されませんでした。 グリッドの北西隅(道路の北)で検出されたR42と断片的な壁遺構は、道路の北側にも別の居住区画があることを示唆しています。
今シーズン新たに発掘を開始したI8/d9とI8/e8で出土した遺構R51、R52、R54も第1建築層に属するものです。やはり床面は残存してはいませんでした。
第1建築層からは、青銅製品、石製鋳型(Fig. 8)、土製紡錘車等の遺物や、種々の土器が出土しています(写真14、15)。 特に、浮彫が施された土器片(Fig. 9、10)、印影付き土器片(把手部)(Fig.11、12)、およびフルーツスタンドと呼ばれる2つの垂直把手と2つの水平把手のある高坏様の容器(Fig. 13)は、アッシリア商業植民地時代の特徴を示しています。
第2建築層の遺構(Fig. 16、17)
I8/c5、I8/c6、c7、I8/b7グリッドで第1建築層の壁を取り除いた後、確認された第2建築層の遺構は、保存状態が悪く断片的です。 I8/c6で第3建築層に属するR48の北壁W63の直上に検出された敷石群、I8/c7(Fig. 16)でR48の東側で検出された敷石群、およびI8/b7で検出されたやはり敷石と考えられるW127(Fig. 17)は、その形状も機能も完全に把握することはできませんでしたが、第1、第3建築層とは異なる建築層として確認されました。 また、I8/c5の第3建築層に属するR45の西壁W115にW116とW117の壁を追加して再建されたものと考えられるR47も第2建築層に属します。 また、R47の北壁W116は、4層目の道路を覆い、道路と壁石の間に堆積土層が観察されたことから、4層目の道路遺構はR47よりも古いとみなされます。
I8/c5、I8/c6で第2建築層と同時期と考えられる2層目の道路からは、青銅製印章(Fig. 18)と封泥(Fig. 19)が検出されました。
第3建築層の遺構(Fig. 21)
I8/c6、I8/c7グリッドの第1建築層の遺構の床下に見られる石列(Fig. 20)をたどると、第1建築層の遺構群とほぼ同じ軸線上に建てられた複数部屋から成る建築群が出土しました。第3建築層として確認されたこれらの遺構(R40、R41、R43、R44、R45、R46、R48、R49、およびR50)でも、床面部分はほとんど残存していませんでした。ただし、遺構内部で確認された断片的な炉床(R40のH11、R41のH12、R44のH10、R45のH9、R46のH13、R48のH6、R50のH7)から、建物の床面もほぼ同レベルで存在したものと推測されます。これらの炉遺構は炉床のみがしかも非常に断片的に残っているだけですが、I8/b6グリッドで検出されたH14(Fig. 22)は、W134とW135と共に使用されていたもので、炉縁の日乾煉瓦と堅牢な炉床が保存されていました。 H14はオーブン型の炉であったと考えられます。
I8/c6グリッドでR45の内側と外側に検出された石で囲まれた柱穴(Ins5とIns6)も、建物の床面レベルを示唆するものと考えられます。また、W121とW96が作るコーナーに検出された壺型土器は、胴部が床から掘り込まれた穴に埋められており、口部のみが部屋の床の高さに出ていたものとみられます。 I8/d7のR46の北東隅に配置された別の壺も、同様に床の下に埋め込まれていました。
明確なプランに基づいて建てられた複数の部屋をもつこれら第3建築層の遺構では、壁には小さめの礫が使用され、礎石にはやや大きめの石が使用されていました。これらの建物どうしは、間を開けずに隣接して建てられていますが、壁を共有してはおらず、隣の建物の壁に接して同じ方向と配置で壁を建設されており、互いに独立していたものとみられます。
蛍石製の獅子像(Fig. 23)と青銅製の印章(Fig. 24)は、第3建築層で出土した代表的遺物です。
第4建築層の遺構(Fig. 25)
I8/b6、b7の発掘では、第3建築層に属する壁が浮き上がったレベルで壁W132、W133、W138、W139が観察され始めましたが、これらの壁は損傷が激しく、非常に断片的なものです。
I8/b6の南西隅から 北東方向に僅かにカーヴしながら延びる W137には非常に大きな石が使用されています。W137の西部に、W137に沿うように築かれた東壁W150と北壁W151から成るR53が検出されました。R53はより古い赤褐色の堆積土を掘り込んで築かれた半地下式の建築遺構です。
ピット群
I8/d6、I8/c7、I8/b6、I8/b7グリッドで、 第3建築層の遺構の床レベルよりも下にあり、その遺構より古く、かつ第4建築層の遺構を壊しているピット群(P2、P3、P4、P5、P6、P7、P8、P9、P10、P11、P12、P13、P14)が検出されました。 いずれのピットも廃棄された黒灰で満たされており、同時期に使用されていたものと考えられます(Fig. 25)。
I8/b6で発掘されたピットP7からはフルーツスタンドの基台部片、尖底両耳杯 (Fig. 26)、I8/b7のP11からは印影付封泥(Fig. 27)が発見されました。
道路遺構
I8/c5、c6、d6、d7を西から東に完全に通過しているこの道路遺構は、現在の発掘区域からさらに西で2015年に実施されたGPR調査で検出された帯状の遺構に繋がるものと考えられます(Fig. 28)。 この道路は4つの異なる層で建設、使用されていました(Fig. 29)。
第1道路遺構:最も上層の道路遺構で、保存状態はよくありませんが、第1建築層と同時期のものです。
第2道路遺構:第1建築層の遺構群の下に潜っており、 第2建築層と同時期と考えられます。やはり、破損が激しく、保存状態は悪いです。
第3道路遺構:どの建物レベルに属しているかは明確ではありませんが、最下層の第4道路遺構のすぐ上で部分的に確認されました。 第1および第2道路遺構と比較して、石がよりしっかりと密着して充填されていることが確認されました。
第4道路遺構(Fig. 30):最も古い道路遺構で、第3建築層で使用されていた道路です。 上3層の道路遺構と比較して、丸い石がより緻密に敷きつめられています。道路には傾斜がつけられており、中央部分は卵形に窪んでいましたが、道路の両側の縁部は高くなっており、南縁では第3建築層のR49とR46の部屋の北壁であるW100に、北縁では壁W125に繋がっています。 これは、道路中央へ流れをつくり、建物に雨水等が流れ込むことを防ぐ工夫がなされていたことを示すと同時に、この第4道路遺構が第3建築層で使用されていたことを示すものです。 また、道路に検出された車輪の跡は、幅約3メートルで非常に長いエリアをカバーしていたと考えられるこの道路が馬車等も通る主要道路であったことを示唆しています。
地中探査
2019年には、遺丘頂上部の北部において2016〜2018年の調査区域よりも北側および東側区域で調査が行われました(Fig. 31)。 遺丘の中央部で発掘された後期鉄器時代の大建築遺構の連続部分を示す探査結果マップは、都市の主要道路と考えられている2つの空洞の東側で、遺丘の北斜面に続く間隙が、その両脇にみられる矩形の建物と共に、都市の北門である可能性を示唆しています(Fig. 32)。