ヤッスホユック
大村 正子 アナトリア考古学研究所研究員
第12次ヤッスホユック発掘調査(2021年)
第12次発掘調査は2020年度に予定されていましたが、コロナ感染の拡大に伴い中止を余儀なくされ、2021年9月2日から11月20日に実施されました。感染を引き起こさないよう、隊員、労働者の数は最小限に抑え、調査規模も小さく実施しました。
1. 2021年度の発掘区域と調査目的
遺丘頂上部でこれまでに検出した第III層の前期青銅器時代末期に属する建築遺構(III-1)は、第I層鉄器時代および第II層中期青銅器時代の建造物により、所々破壊されており、より古い建築遺構や火災層が露出している部分が観察されていた。2021年度の調査では、これらの層まで掘り下げるとともに、今までの発掘調査ではいたって脆弱な形でしか確認されていない第II層についても調査を進め、前期青銅器時代における編年を明らかにするとともに、前期青銅器時代から中期青銅器時代への変遷を明確にすることを目的に、調査を開始した。また、III-1建築層の大遺構についても、さらに詳細な調査を進めた。
2021年度は、遺丘頂上部での調査に重点を置き、2018−2019年度に発掘調査を行った「下の町」での調査は休止した。また、コロナの感染拡大に伴い多くの隊員が参加できず、毎シーズン継続してきた地中探査は昨年に続き休止せざるをえなかった。
2021年度に発掘調査が実施されたグリッドは、Area1のE8/d7, E8/d8, E8/d9, E8/e7, E8/e8, E8/f10, E8/g10, E9/d1, E9/g1の9グリッドと、二つのセクションボークE8/d9-E8/c9, E8/d10-E8/c10でした(Fig. 2)。
2.発掘調査
2.1. 第I層: 鉄器時代に関する発掘調査
セクションボークE8/c9-E8/d9 と E8/c10-E8/d10において、2016−2017年にE8/c9. c10, d9, d10グリッドで発掘された後期鉄器時代に属するI-7 および I-8b建築層に属する建築遺構の礎石および床面の一部の連続部の検出を試みた。表土の下の体積を掘り下げることにより、I-7建築層に属する遺構R15 と R16の壁W33, W34, W41およびその床面が出土した(Fig. 3)。
R15とR16を取り外したすぐその下にはI-8b建築層に属する大遺構の壁W57とW40、そしてこれらに関連する遺構R127, R128 および R70の床面が確認された(Fig. 4)。ただし、R70の床面から約20−25cm上で検出された土器片が敷かれた炉床H41は、これに対応する部屋の床面は確認されていないものの、壁W40が再利用された時期のものと考えられる。
また、相互に切り合っている三つのピットはH41および W40の覆土を切って掘り込まれており、より後の時代のもの、おそらくは、W40と同時期のW57の直上に建てられているR15とR16よりも後の時期のものと考えられる。
E8/d7, E8/e7グリッドでは、2017年に発掘された後期鉄器時代のI-6b建築層に属する多室構造の遺構を取り外すことから調査が始められた。この遺構に属する部屋R113, R111, R54, R52, R126の床面は所々壊れており、そこでは下層の火災層の堆積土が観察されていた。これらの遺構の壁を取り外す際にE8/d7グリッドの東端でR126のW280に連続する床面が確認された。この床面とW280の下に確認された壁W357 と W358から成る R134は、2013年にE8/d8グリッドで検出されたR58に並行するのではないかと考えられる。R58はI-12建築層に属し、中期鉄器時代に属するものと考えられる。
2.2. E8/d8グリッド東断面における第I層および第II層の層位観察
I-6建築層に属すR126の直下に確認される厚い灰層は、第II層の最上層(II-1建築層)のR81の西壁W230の建設に当たって深く掘り込まれ壊されているが、R135 と R136よりも下層にあり、北方向に上昇していることが確認される。この厚い灰層の直下には灰褐色の堆積土が観察され、この堆積がII−4建築層のR133を覆っている。また、R133の西壁W356はIII-2建築層の赤色焼土を切って築かれていることも確認できる。
2.3. 第II層: 中期青銅器時代の発掘調査
E8/d8 ve E9/d1, E9/e1グリッドでこれまでの発掘調査で検出された第II層の建築遺構は、非常に保存状態の悪いものであった。2021年度は、この層をよりよく理解するため、E8/d7, E8/d8, E9/g1グリッドで調査を行った。
E8/d7グリッドでは第I層鉄器時代の遺構群の下から、2015年にE8/d8グリッドで検出されたR81の西壁W230および南壁W239の連続部が出土し、R81が多室構造の建造物であることが明らかになった。
R135-R136: W239によりR81と仕切られている南の部屋をR135、W230で仕切られている西の部屋をR136とした。R135の床面はほぼ部屋全体で確認されたが、R136の床面はW230の前面に近い部分でのみ残存していた。この多室構造の遺構の南壁W360は、巨石を使用した幅が約1.5mもある大きな壁である。この大きな石材のバランスを取るためであろうか、その石列の下に比較的小さな石が敷かれていることが注目された。また、壁の南面はこの大型の石列より約50cmほど張り出した形で並べられた石列は礎石であったと見られる。W360は、この遺構の南外壁であると同時に、この遺構群もしくは居住区を取り巻く外壁としての役割を持っていたと推察される。
E8/d8グリッドでは2015, 2016年に第II層中期青銅器時代の三つの建築層に属する遺構を確認した。最上層の第1建築層としてはR81を、第2建築層としてはR81の東外部のW256を、第3建築層としてはW262とこれに沿って日乾煉瓦で作られた階段であった。2021年度の調査では、これらの遺構が厚い灰層の上に築かれていたこと、特にR81がこの灰層を切って建設されていたことを確認した。さらに、この灰層の下の灰褐色の堆積土により覆われていたR133を発掘した。このR133の北壁W353は、第III層の第1建築層(III-1建築層)である大火災を受けた大遺構の部屋の一つR36の西壁および床面を切って建設されていることも確認された。W353は約2mの高さで、ほぼR36の床面の高さまで保存されていた。R133の床面は南西に向かって下降しており、部屋の北東隅と南西隅の高低差はおよそ95cmもある。このことから推察して、この区域では、III-1建築層以前にこの傾斜が存在していたと考えられる。また、東壁W354と西壁W356は、R133の外部の赤黄色の焼土を切っていることも確認できる。この焼土はIII-1建築層の大遺構よりも下層に位置するより古い焼土層である。すなわち、厚い石壁から成るR133は、大火災を受けた前期青銅器時代末期の大遺構およびさらに古い焼土層をも壊して建設されているが、その地面の傾斜に影響され、あるいはその傾斜に則って、傾斜した床面をもった建造物となっている。グリッドの南西隅に検出された2個の並んだ石は、R133の南壁の一部と見られる。部屋の中程にある5個の柱穴のうち、正に中央にある他よりもやや大きな柱穴と2個の小さい柱穴は一列に並んでいるが、他の2穴は列を成していない。
R133はおそらくある時点で修復され、再度使用されていたものと考えられる。W356はW353の半分ほどの高さまでしか残存していないが、この高さ辺りまでのW353の石積み技法とそれよりも上方の石積み技法には明らかに差があり、しかもこの2層の間には土の堆積すら見られる。W354でもほぼ同レベルで石積みに差異が見られ、土の堆積も観察される。
R133の三つの壁の中央の基部に見られるバットレスもしくはパイアンダ(扶壁、控壁)のような突出部の意味や機能は明白ではなく、また、建物そのものの機能も不明である。ただし、現在のヤッスホユックの遺丘頂上部に存在したと考えられるより小さな丘状部を取り囲むようにこの建物は築かれていたようであることから、今後の発掘調査で、この建物の延長部が確認されるならば、当時の都市の防御システムの一環として解明される可能性も十分に考えられる。
E9/g1グリッドで2017年にEBAの大遺構の北西部の部屋R47の床面を直角に切り込んだ部分が見つかりました。床面の半分の残存部分と深く掘り込まれた部分は、2千年紀および3千年紀の土器片が混在する堆積土に覆われていた。発掘区の北東隅に向かって下降するこの覆土は、さらに北東に向かって下降しているようである。この掘り込まれた部分の底部で、整っているとは言い難い石列が検出されていた。2021年度はこの石列の調査を行ったところ、幅の太い壁の礎石W362であることがわかりました。W362はR47の床面を切っている断面に平行に築かれており、グリッドの東断面の観察から、R47の床面が切られた後に、築かれたものとみられる。E8/d8グリッドのR133に対応する位置にあり、ほぼ同時期ではないかと考えられる。
2.4. 第III層: 前期青銅器時代の発掘調査
まず、III-1建築層の大遺構の西端にある部屋R22で、その壁W47 とW255の未発掘であった礎石部分と、W47上の外部からの入口を明らかにした。また、E8/e8グリッドで、W47とW59に挟まれた廊下状の空間の西端で、W59とW253が交わるコーナー部分に近い地点で、あまり大きくはない石による礎石と板木から成る敷居遺構が検出された。この敷居遺構の礎石の間から、一本の鉄製ナイフが発見された。
おそらく、ここには建物の裏口として建物への出入りに用いられた幅広の出入り口があったものと考えられる。この出入り口付近から東側のE8/e9 と E8/d9グリッドのW47 と W59、そしてR27の床面は、後期鉄器時代の堀込みの建物R13によってひどく破壊されていた。この区域をクリーニングしつつ発掘したところ、R27の第2の(古い)床面が存在することが確認され、W47は古い床面の時期に築かれ、のちに修復されて第1のすなわち新しい床面と再度使用されたことが、明瞭となった。前々から推定されていたように、コートヤードR8とその前室R39にも床面が2枚存在することが確実となった。しかし、南側と西側の部屋部屋の床面は高い位置に、1枚だけであったようである。周辺部の部屋部屋の壁では、礎石の上に日乾煉瓦が比較的整った形で組まれているにもかかわらず、コートヤードR8を取り囲む壁、特にW47 とW19では、床面近くの礎石はまだ整っているものの、上に向かって焼けた石と日乾煉瓦が乱雑に詰め込まれていた。おそらく、この大遺構は、放棄された時の大火災以前に、別の火事に見舞われていて、その時点で一度修復され、再度使用されていたのではないかと推測されます。
R27の西端の鉄器時代の建物に壊されている部分で行った調査では、EBAの末期に属するこの建物の壁遺構の基本的礎石建造技術をも知ることができた。W47で観察できたところでは、壁の礎石は、その壁幅よりも20−30cm両脇へはみ出す長さの丸太材が平行に敷かれ、その上および間に比較的小さな石が詰められていた。これらの石は、壁の上方に詰められていた石よりも小さいものだった。石の間、もしくは上にはモルタル材としての粘土が詰められていた。この建物の古い層では、これらの石の上に日乾煉瓦が積まれていたと考えられる。
E8/e8グリットで第I層後期鉄器時代に開けられたピットP129は、III-1建築層の大遺構の部屋R22の床面を掘り壊しているが、そのピットの側面には、この遺構の下に第III層のより古い層が存在することを明瞭に示している。
第III層の第1建築層(III-1)に属するR22の床面下には石が敷かれた炉床を含む薄い灰層が見られ、その下には厚い灰層が、さらにその下には大火災の跡と見られる赤色焼土層が確認できる。ピットの底面にはこの焼土層に含まれる大火を受けた日乾煉瓦壁が出土し始めている。この状況を踏まえつつ、E8/e8グリットでR22の南外部で、すなわちW47の南側で、より古い層へ掘り下げるための発掘を開始した。
黄赤色の焼土を約45−50cm掘り下げたところ、下層の日乾煉瓦を含む大火災層を覆う灰層を検出した。この灰層はR22の壁W47の下に潜っているが、南西方向に下降しているが、西隣のE8/e7方向へも下降していることが見られた。
E8/e7グリットで継続した発掘調査では、第I層鉄器時代の遺構の下の赤褐色の覆土の下に検出された黄赤色の焼土の塊に覆われた形で、大型の石による約1.5m幅の壁の断片W363が検出された。この石壁は南西面だけが調整されていた。ただし、W363はE8/e8グリットでP129の底部に検出された日乾煉瓦壁を含む焼土層よりも上の層に属する。
第III層において、火災を受けた大遺構(III-1建築層)よりも古い層が存在することは、他のグリットでも確認されている。これらのうち幾つかについて、部分的にではあるが調査を行った。E8/f10 と E8/g10グリットで検出されたR46は、中期鉄器時代のピットP34と、深い掘り込み式の建物R29によって大きく壊されてしまっており、床面も壁のそばで僅かに残存しているのみである。床面の壊された部分では下層の焼土が観察される。隣のR102の高く残存している床面との間にできた断面から、大きな炉床が確認できる。
この炉床の半分を明らかにし、周辺を精査したところ、火を受けていない2列の石列よりなる壁が、火を受けている漆喰で表面を塗装された日乾煉瓦の壁の上に乗る形で検出された。すなわちここでは、R46とR102(III-1建築層)の下に三つの異なる層が存在する。ただし、炉址を含む層で僅かに検出された床面がR46とR102間の壁W58に結びつくかのようでもあり、来シーズンの精査が必要である。
3. 出土遺物
3.1. 鉄器時代の遺物
第I層では銅・銅化合物であるフィブラ、鏃、ピン、リング、石製のビーズや砥石、石製もしくは土製の紡錘車、土器に貼り付けられた動物像など、後期鉄器時代の遺物が検出されている。
3.2. 中期青銅器時代の出土遺物
第II層の出土遺物は非常に少ないが、銅・銅化合物であるピンや縫針、銀製の垂飾、石製錘、焼成粘土製紡錘車等が出土している。また、小さな杯形土器と皿形土器は、ろくろ製で赤色スリップが施され磨研されており、2千年紀初頭の土器の特徴を示している。
3.3. 前期青銅器時代の出土遺物
第III層の第1建築層の大遺構から、石製のスタンプ形印章と銀製装飾品として耳飾り、円筒形ビーズ、そして銅もしくは銅化合物、あるいは鉛製のリングやピンが出土しています。薄い基部の上に短く真直ぐな把手部がついたスタンプ形印章の印面には幾何学文が刻まれている。北側の後室の一つR41から出土した15点の銀製耳飾りは、大小のリングや木の葉形のプレートがついたものがある。これらと共に、多数の鉛製リングが出土していることも興味深い。同室から出土した銀製の円筒形ビーズは、表面に卍模様風の幾何学文が刻まれ、円筒形印章の可能性もある。
廊下様の空間R27の西端で検出された敷居遺構の礎石の間から出土した鉄製のナイフは、細く尖った刃先をもち、薄く矩形の把手部がある。刃先部は2枚に剥がれている。把手部近くにはおそらく骨製の薄い装飾版が2枚に割れて残存している。出土地点は紛うことなく前期青銅器時代に年代づけられるが、金属鉄の保存状態が非常に良いことが、時代決定を躊躇させる。
2点の骨製品が、III-1建築層下の堆積土の発掘に際して出土した。大形動物の骨から作られた槌頭は、骨の本来の湾曲を利用し、中央に把手用の穴が貫通している。槌の大きい方の一端には使用痕が残り、他の小さい方の一端は壊れている。土の表面や把手用の穴の縁は磨かれている。今ひとつの骨製品は、小さな紐穴が開けられた薄い箆(スパトゥラ)である。
4. 発掘区の保護
遺丘状の発掘区には、例年通り保護屋根を架けた後、今シーズンを終了した。