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カマン・カレホユック
大村 幸弘 アナトリア考古学研究所長
第35次カマン・カレホユック発掘調査(2022年)
はじめに
2020年、2021年はコロナの蔓延で、残念ながら発掘調査を中止せざるを得ませんでした。2022年は、トルコ国内のコロナ感染数も減少したことなどもあり、3年ぶりに7月13日〜9月6日まで発掘調査を行ないました。今シーズンは日本、トルコ、欧米の多くの研究者が発掘調査に入ると同時に、文化・観光省からは、カマン・カレホユック考古学博物館から査察官としてペンペ・ギュルソイ学芸員が派遣されました。約二ヶ月間の調査期間中、現場の作業を滞りなく進めることができたことは何よりでした。
発掘調査の期間中に考古学フィールドコースを行いました。このコースには日本から10名の学生が参加しました(写真1)。参加者は発掘調査を通して考古学資料がどのような過程を通って研究に使われるかなどを学びました。
発掘調査に入る前に
今回の発掘調査では、2シーズン調査を行なわなかったこともあり、まず最初に発掘区のクリーニングを行うことから始めました。特に、北区にかけてあった保護屋根は、冬期間に雪の重みで数カ所壊れていたこともありその取り外しを行いました(写真2)。保護屋根が雪によって破壊された箇所の断面の一部は崩れかけていたこともあり、その除去を行いました。崩落していたこともあり、それらの取り上げた土をフルイにかける作業を行いました。
これまでは発掘調査を行う箇所だけの保護屋根を取り外していましたが、2022年は保護屋根全体の取り外しを行いました(写真3)。また、各発掘区ごとにクリーニングを行いましたが、土をフルイにかけることにより、土器片、ピンなどの青銅製品、紡錘車などを確認することが出来ました。採集した遺物の中で完形のものは、実測、撮影、登録した上でカマン・カレホユック考古学博物館に納めました。
発掘調査目的
第35次カマン・カレホユック発掘調査の目的は、北区では「文化編年の構築」があげられます。特に前期青銅器時代後半の火災を受けた建築遺構がどのような構造のものかを明らかにすることがありました。また、その火災を受けた建築遺構は数建築層あることはこれまでの調査で明らかになっておりましたが、それらの火災を受けた建築層が実際いくつの建築層から形成されていたかを今シーズンの調査で明確にできればと考えておりました。また、南区では後期青銅器時代、ヒッタイト帝国時代の大型建築遺構の全体像を把握することを目的としてあげました。特に、ヒッタイト帝国時代の建築が幾つの層からなしているかを解明することと、その機能を明らかにすることに主眼を置きました。
発掘調査と並行する形で、収蔵庫の整理も行いました。コロナ禍で発掘調査が中断せざるを得ない時期が2シーズンもありましたので、その期間を使い旧収蔵庫内の遺物の整理を行いました(写真4)。これは現在も継続して行っています。
発掘区
2022年では、右記の発掘区で調査を行いました(図版1)。
北区では、前期青銅器時代―III、IV、V区(写真5)、初期鉄器時代―XX区(写真6)、後期鉄器時代―XXXIII区(写真7)、南区では、後期鉄器時代―III、XXII区(写真8)、中期鉄器時代―XXII区、後期青銅器時代―XXXII、XXXIV、LII、LVI、LVII区(写真9)で調査を行いました。
北区で検出した建築遺構と遺物
北区で調査を行った後期鉄器時代、前期青銅器時代の建築遺構と出土遺物を紹介します。
後期鉄器時代
(1)XXXIII区
この発掘区では、2004年に確認していた後期鉄器時代の城塞の取り外しを行いました(写真10)。この城塞は、後期鉄器時代に年代付けられる遺構でV、XXXIV区、遺丘の南西斜面に設置された城塞区でも確認されていたもので、カマン・カレホユックの傾斜面を取り囲むように構築されたものです。
この城塞区を取り外した背景には、V区で城塞の直下で初期鉄器時代の火災を受けた建築遺構を確認していたことがあり、その全体像を把握することを目的として城砦の取り外しを行いました。今シーズンは城塞の取り外しに一ヶ月余りも時間を費やしてしまいましたが、後期鉄器時代の城砦の構造をほぼ明らかにすることができたことが一つの成果ではないかと思います。
城砦を取り外した結果、XXXIII区の西断面に城砦を構築する上で基礎部のブロック状の石を数段積み上げたところで、それを支える形で粘性の焦茶色の土が1〜2メートルに渡って詰め込まれていることが明らかとなりました。城塞の幅は、約5メートル、両サイドにブロック状の石が設置されており、それらが設置した後に破砕された石が詰め込まれた形となっています(写真11)。また、東セクションの側からは城塞を支える保存状態不良の壁体も確認されています。この後期鉄器時代の城塞の石壁の上には日干しレンガが積み上げられていたのではないかと推測することができますが、基礎部分を概観する限りでは長期間耐えうるだけの堅固な構造物とは考えられません。
この発掘区からは、土器片を利用した紡錘車が確認されています(写真12)。
初期鉄器時代
(2)XX区
この発掘区でも、XXXIII区と同様の調査目的で作業を進めました。このXX区の西に位置するVI区からは、以前の調査で初期鉄器時代の第IId層に年代付けられるR39が確認されています。今回のXX区の調査で、R39の東壁、W53を確認しました。このR39の北壁には日干し煉瓦で作られた炉址2基が確認されています(写真13)。この炉の形態は、日干し煉瓦で矩形に作られており、第IId層でよく見られる形態です。XX区で検出されているR460は、R39とほぼ同じレベルで見つかっていること、床面もR39と同様掘り込みであること、また、R460の南壁には第IId層の独特の炉が確認されていることなどを考えると、R460も初期鉄器時代に年代つけられると考えられます(写真14)。
このR460を調査中に彩文土器(写真15)、あるいはフィブラ(写真16)が出土しています。どちらも第IId層に年代付けられるものではなく、中期鉄器時代に年代付けられるものです。ピットなどが掘り込まれた際に紛れ込んだ可能性があります。
前期青銅器時代
(3)III区
この発掘区では前3千年紀、前期青銅器時代後半の発掘調査を行いました。III区の発掘調査では、2019年、IV区で確認しているR466の南部分の確認を行いました。R464の遺構が確認される前に柱穴と同時に多くのピットが見つかりました。この柱穴に結びつく建築遺構は確認することは出来ませんでしたが、明らかに一つの層を形成していたものと考えています。数多く見つかっているピットの中でP3677内からは鉄関連資料が出土しています(写真17)。この類例は、2015年、IV区のP2015で、さらに2019年、同区からも見つかっています(写真18)。
柱穴、ピット群を取り外したところ、火災を受けたR488のW29、W30が出土しました。この壁の内側は漆喰が塗られており、また、W29にはベンチ上の施設が敷設されていました。このベンチの側からはW29、W30に付属する床面が見つかっています。その床面上からは火災を受けた木材―おそらく上部から落下したものや穀物が大量に出土しています。炭化した穀物のそばからは摺石も見つかっています(写真19)。また、P3714内からは前期青銅器時代後半に年代つけられる皿型の土器も見つかっています(写真20)。
W29、W30は実測した後に取り外しに取り掛かりましたが、定型の日干しレンガは認めることはできませんでした。泥を積み上げた形の脆弱な壁で、基礎部分には壁の幅で丸太が設置されていました。この工法は、前期青銅器時代の他の発掘区でも確認されています。この工法が前期青銅器時代後半の独特なものなのか、あるいは前期青銅器時代前半から継承されているものかについては他の遺跡の前期青銅器時代の建築遺構と比較する必要があるのではないかと考えています。
(4)I V区
IV区では、R466、R 474のW42、W43を取り外したところ、それらの直下からW50、W 51からなるR478、R480の建築遺構を見つけることができました。R478のほぼ中央部からは矩形のピットが確認されています。その矩形のピット内には灰がびっしりと入っている状態で見つかりましたが、東セクション側で見つかっている円形炉H394で生じた灰がここに投げ込まれたものではないかと推測しています。R478の床面も、ピットによりかなりの部分が壊れていましたが、円形炉、矩形のピットの大量な灰などからこの遺構は在り来たりの生活空間と考えるよりは工房などではないかと考えています。
R478の床面を取り外しますと、その直下からは東西に走るW56が見つかりました。と同時にW50、W51とR56によって構成されたR490が確認されました。このR490内からは楕円形の炉址H400が見つかっています。この炉址の壁は拳代の石で組まれており、炉跡の中も石が敷き詰められていました。このH400の東側部分を切るような形でH400と同規模の遺構が確認されていますが、石壁、石敷きの床面などは認められませんでした。
R491の北側にはW50、W56からなるR491が見つかっています。このR491のW56の北側にH400と同様、石壁、炉の床面に石敷きが施されたH404が確認されていますが、ピットなどによりかなりの部分が破壊されています。W50は、P3651、P3678、P3685によってかなりの部分が壊れていますが、その中でもP3651によって破損された壁を観察しますと、III区のR488の壁の基礎部で認められた壁幅で丸太の木材が敷かれているのを確認することができました。
R475の北壁W44にはW51、W52が見つかっていますが、これはR475が何度か改築されたことを物語っているのかもしれません。また、W51の側にはH395が検出されていますが、その周辺には別の炉、H407、H408の痕跡が見られることからH395を作る際にはそれ以前の炉を取り外したものと考えられます。
この発掘区では、土製の紡錘車、青銅製鎌などが出土しています(写真21)。
(5)VI区
この発掘区では、東西断面が冬期間に崩落していたことから、まず最初に崩落土の除去から開始しました。ここでは以前の調査で確認されていた火災を受けていないR463の床面、さらにR463を構成しているW64、W65の取り外しを行いました。ここでもW64、W65の非定型の日干しレンガを除いたところ壁幅で木材が確認されています。これはIII区、IV区でも見られたものです。
R463の床面を切って掘り込まれたP3693の床面から取手付きで基台付きの水差し型土器が見つかっています(写真22)。
南区で検出した建築遺構と遺物
南区では、後期鉄器時代、中期鉄器時代、中期・後期青銅器時代の調査を行いました。
後期鉄器時代
(1)II区
この発掘区では、後期鉄器時代の建築遺構の調査を行いました。
南区では、現在、第III層の中期・後期青銅器時代のヒッタイト古王国時代、ヒッタイト帝国時代、アッシリア商業植民地時代の建築遺構、特にヒッタイト帝国時代の調査を行っています。北区では発掘区が限定されているために、これまでヒッタイト帝国時代の建築遺構は他の時代に比べてそれほど取り上げられることはありませんでした。2015年以降の南区の発掘区で帝国時代の大型建築遺構が確認されたことにより、前2千年紀後半もカマン・カレホユックが重要な役割を演じていた可能性もあり、2018年、2019年の調査ではその大型建築遺構に焦点を合わせた調査を行うとともに、その建築遺構が南へと伸びている可能性が出てきたことから、南区で残されている後期鉄器時代の建築遺構の取り外しを行いました。
II区では、1987年の調査で確認した後期鉄器時代のR3、R6の取り外しを行いました。この発掘区では、上層からP1596、R3、R6の順で3期の遺構が積み重なる形となっていることが明らかです。
まず最初に、R3の壁をくり抜く形で掘り込まれたP1596の除去から調査を開始しました。このピットの壁は石組みによって作られていました。おそらく穀物などを貯蔵する施設として使われていたものではないかと考えています(写真23)。
P1596によって壁の一部がくり抜かれているR3の床面の一部からは石敷きの床面が見つかっています。床面の全体は石敷きであった可能性はありますが、その半分は取り外された形となっています。
R3によってその一部が破壊されているR6は、半地下とまでは行きませんが地面を多少掘り込みの形で床面は作られています。
R3の壁の直下からP1621が見つかっていますが、この中からは動物骨が出土しております(写真24)。その出土状況から見ますと、単にピット内に投げ込まれたのではなく埋葬された可能性があります。これまでのカマン・カレホユックの北区、南区の後期鉄器時代で検出したピットからは動物骨、特に犬の骨の出土例が数多く見つかっています。それらのピットを観察しますと、獣骨上に拳大の石が敷き詰められているのが特徴です。このピットは、層序的にR3直下であることを考えますとR6に結びつく可能性があります。
この発掘区からは青銅製フィブラ(写真25)、土製紡錘車、鉄製鏃などが出土しています。
後期鉄器時代、中期鉄器時代
(2)XXII区
この発掘区では後期鉄器時代、中期鉄器時代の建築遺構の調査を行いました。
ここで確認された建築遺構は、大きく分けて後期鉄器時代の2期、中期鉄器時代に分類されます。
この発掘区の後期鉄器時代は、上層からR253とその直下のピット群、そのピット群によって破壊を受けている建築遺構の3期に分かれています。
R253は、発掘区の南西隅で確認されています。壁は石組みになって半地下形式を採っています。石壁を観察すると修復が認められます。このR253がII区で出土しているR6とほぼ同時期ではないかと考えています。
R253の外の生活面下で確認されているピット群は、いずれも小型のものです。
そのピット群、あるいはR253によって壊された石壁はいくつか見つかっていますが、明確なプランを見せるものはありませんでした。
中期鉄器時代の建築遺構のR262、R263の平地式を採っており、壁は石組みからなり一部からは漆喰が認められました。
この発掘区では後期鉄器時代、中期鉄器時代の土製紡錘車、鉛色の土器(写真26)などが出土しています。
中期・後期青銅器時代
(3)LII、LVI、LVII、XXXII、XXXIV区
2016年〜2019年の調査で、後期青銅器時代、特にヒッタイト帝国時代の大型建築遺構がL、LI、LII、XXVII、XXIX、XXXII、XXXIV区で確認されていました。この大型の建築遺構が果たして宮殿なのか、神殿なのかあるいは全く別の機能を持ち合わせたものかを検証するために、ここ数年調査を進めてきております。帝国時代の大型建築遺構は、L、LI、LII、LIII、XXXIV、XXIX、XLVIII、XLIX、XXVII、XLVI、XLVII区などを中心に確認されているもので、大きく2時期に構築されたことが明らかです。L、LI、LII、XXXIV区で見つかっている前期大型建築遺構に対して後に敷設される形でXXXIV、XXIX区などで見つかった後期大型建築遺構が構築されたことは明らかです。
LVI区では、R258、R259、R256などの床面は一部石敷きになっているなど極めて保存状態良好な遺構を確認しています。この一連の建築遺構の南側、LVII区で南へと下がる傾斜面が見つかっています。この傾斜面は、LII区で見つかっている前期の大型建築遺構の石敷きと結びつくことが明らかとなっています。となりますと、R258の一連の建築遺構と前期大型建築遺構が時期的に一致することになります。
XXXIV区で見つかっているR261は、まだ明確なことは言えませんが、傾斜面よりは明らかに上層に位置していることは間違いありません。このR261と後期大型建築遺構が結びつくかは今後の調査を待たざるを得ませんが、今回の調査で前期大型建築遺構、後期大型建築遺構の2時期にわたって建設されたこと、前期大型建築遺構が後期に比べてかなり広範囲に渡って構築されていたことが明らかとなりました。
また、前期大型建築遺構をくり抜く形で作られている大型のピット群の床面を観察すると焼土を確認することができます。この焼土はL、LI、LIII区の北セクション近くで確認されている中期青銅器時代のアッシリア商業植民地時代の焼土の可能性が高いと言えます。北区のI、II、XII区を中心に確認されているアッシリア商業植民地時代の火災を受けたR148、R150を中心とする宮殿址の焼土の一部の可能性をレベル的に十分に考えることができます。この焼土はL、LI、LII区では前期大型建築遺構によって切られている形をとっていますが、LIII区では前期大型建築遺構を掘り込む形のピットの床面下に位置しています。これから言えることは、アッシリア商業植民地時代は北区のXII区などが最も高く丘上になっていたことを物語っているのではないかと思います。
出土遺物のクリーニングと遺跡保存
主な出土遺物(展示にかなうもの)は、アナトリア考古学研究所の保存修復室でクリーニングを行ったのちにカマン・カレホユック考古学博物館に納めました。また、北区には保護屋根(写真27)をかけるとともに、南区の断面、主な建築遺構にはジオテックスで覆うことによる保存を行いました。アナトリアの冬期間にはかなりの降雪がありますので、発掘区に保護屋根を掛けることは遺跡保存にとって大切なことではないかと思っています。と同時にこのような形の遺跡保存が最善のものかについては今後の課題として置きたいと思います。
出土遺物の整理作業
発掘終了後、展示にかなう出土遺物は全て考古学博物館へ納めたのち、その他の土器片、獣骨片などの分類作業は、12月の初旬に開始、現在も盛んに行っているところです(写真28)。昨年度完成した収蔵庫に、現在、第一次発掘調査で出土した遺物を整理した上で種類別、層序別などに並べているところです。
謝辞
第35次カマン・カレホユック発掘調査は、出光文化福祉財団、JKA、住友財団、文化財保護・芸術研究助成財団、千葉工業大学からの助成によって進めることが出来ました。誌上を借りて厚くお礼を申し上げます。