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カマン・カレホユック
大村 幸弘 アナトリア考古学研究所長
第34次カマン・カレホユック発掘調査(2019年)
はじめに
第34次カマン・カレホユック発掘調査は、2019年7月4日から9月5日まで行ないました(写真1)。今回の発掘調査には文化・観光省からは、アンタクヤのハタイ考古学博物館からハッサン・セデフ学芸員(写真2)が査察官として派遣されました。ハッサンさんは外国の調査隊の査察官としては初めてとのことでしたが、2ヶ月の調査期間中、発掘にも参加する等極めて協力的であったのが印象的でした。
発掘調査目的
第34次カマン・カレホユック発掘調査の目的は、二つありました。一つは北区で『文化編年の構築』、二つ目は南区で『後期青銅器時代の大形建築遺構の全体像の把握』でした(図版1)。
北区の『文化編年の構築』と建築遺構
北区では、III〜VI区の4発掘区で調査を行ないました。この4発掘区では、カマン・カレホユックの第IV層に年代付けられる前3千年紀の前期青銅器時代の建築遺構を中心とする調査を進めました。北区では、これまでの調査で4文化層—第I層、オスマン帝国時代、第II層、鉄器時代、第III層、中期・後期青銅器時代、第IV層、前期青銅器時代-を確認しています(図版2)。
2017年来、これらの4発掘区では前3千年紀の第四四半期、第三四半期に年代付けられる前期青銅器時代の文化層の調査を集中的に行なっています(写真3)。
この前3千年紀の前期青銅器時代は、文献資料が数多く出土する前2千年紀の中期・後期青銅器時代に較べますとアナトリア考古学界では発掘調査数は少ないと云えます。この前3千年紀の第四四半期、第三四半期はメソポタミアでアッカド王朝、ウル第III王朝の時代でもあり、アナトリア全体がメソポタミアの影響を強く受け始めた時代でもありますし、北側から印欧語族移動の大きな波を受けた時代でもあります。
これまで前3千年紀の発掘調査は、中央アナトリアでは1920年代にアメリカのシカゴ大学が行なったアリシャルフユック、1948年にトルコのT.オズギュッチが継続して調査を行ったキュルテペ等をあげることができますが、前2千年紀の調査に比較しますと手薄と云えます。アリシャルフユック、キュルテペにしてもカマン・カレホユック発掘調査で前期青銅器時代の調査を行なう上で常に参考にしなければならない重要な遺跡であることは間違いありません。
III区
2015年の発掘調査で保存状態の良好なR448(Rは、Roomの略で部屋の意)を確認しています(写真4)。2019年の前期青銅器時代の文化層の調査では、保存状態の良い建築遺構は見つかっておりませんが、それの背景には北区、南区を合わせて5000を超すピット(貯蔵庫用、廃棄場所)が確認されていること、特に前期青銅器時代には無数のピットによって建築遺構がかなりの破壊を受けた為と思います。この傾向は何も前期青銅器時代だけではなく多かれ少なかれカマン・カレホユックのどの時代でも見られるものです。
2019年はR448の南部分の調査を行いました。ピットによってかなり破壊を受けておりますが、プランを読み取れるだけの遺構は残っておりました。このR448の床面を取り外し、南、西壁を取り外しますと、その直下からR450を確認出来ました(写真5)。このR450もR448と同様強い火災を受けていると同時に保存状態はあまり良いものではありませんでした。
このR450の床面を追いながらIII区で調査を行ないましたが、短いW27(Wは、Wallの略で壁の意)、W28が確認されたのみで、その壁もP2491、P3656(Pは、Pitの略で貯蔵庫、廃棄場所の意)によって破壊されていました。R450の火災層で生じた黒色灰は、III区の真ん中まで確認出来ましたが南側に行くに従って黒色灰はほとんど確認出来ませんでした。
IV区
R450の直下からR465、R466を確認しております(写真6)。R465は比較的保存状態良好な床面とH378(Hは、Hearthの略で炉の意)とその西側からは炭化した穀物が大量に確認されています。また、2019年にはR466の南側にR467を確認しております。この二つの部屋も日干し煉瓦で構築されたW42とW43で形成されているものの、P3606、P3522、PP3516、P3549、P3592 によってこの遺構もほとんど壊されていました(写真7)。
これらの建築遺構のW42とW43を取り外したところ、壁の下から基礎部に使用されたと考えられる木材を確認しました(写真8)。壁の基礎部に木材を置き、その上に日干し煉瓦を積み上げる構築法はV区でも確認されています。また、これらの木材の下からは一段組の石壁が確認されています。つまり、この壁は、先ず最初に一段の石組みの土台、その上に丸太、そして日干し煉瓦を積み上げると云う構築方法を採っています。この工法は、アナトリア独自、つまり前期青銅器時代の第三四半期以前のものかについては今後の発掘調査で明らかになるものと思います。
W42、W43の直下から新たに石組みのW48、W49、そしてW48の西側からはW47が確認されています。W42、W43の石壁のコーナーは丸くなっており、これらの石壁によってR476が形成されています(写真9)。また、W47からは腐食し白色した木材の痕跡が認められました。さらにその白色化した木材の上からは注口、把手付き彩文土器が出土しています(写真10)。この彩文土器は、W47の時期より上、つまり、R466、R474の時期より時代的には新しい可能性が高いと考えています。W47、W48、W49を全て取り外したところで、R475、R478〜R481、R486の建築遺構を確認しました(図版3)。
特に、ここで注目すべき建築遺構は、R475、R481です。
R475の北壁、W44の側からは炉址、その側からは石製鋳型(写真11)、金属滓などが検出されていますし、R475の中央部でも円形の炉址も確認されています(写真12)。
R481からも円形の大形の炉址が見つかっています。特に、ここからは把手付きの小形の彩文土器(写真13)、把手付きの刻線文を施した小形の土器(写真14)が出土しており、これらの特色のある土器は出土した建築遺構の年代を考える上では貴重な資料になるものと考えていますし、R475、R481は工房の施設であった可能性が高いと思います。
V区
2017年、2018年の調査では、V区でR469、R471、R472、R473を確認しています(図版4)。
上層から第1期目がR469、第2期目がR471、R472で、第3期目の建築遺構がR473(写真15)であることが調査から明らかとなっています。
2019年の調査では、先ず最初にR473の壁の取り外しを行いました。R473の何れの壁も型で成形された日干し煉瓦によって構築されていました。また、2018年に確認しているR471、R472の直下からは、一時期前の遺構を確認しています。その破壊された遺構は、建物の壁の基礎部分を構成する木材の部分でその多くは朽ち白色化した状態でした。
R473とR471とR472の直下で確認された白色化された木材とP3580、P3645、P3653等多くのピットを確認し、明確なプランを示す建築遺構を明らかにすることは出来ませんでした(写真16)。
P3653から出土した土器は刻線文を施し、その刻線部分には白色の土が象嵌されているのが特徴で、このピット前後の建築遺構の年代付けを考える上では極めて重要な役割りを演じるものと考えています(写真17)。この白色土象嵌の刻線文の土器の類例は、西アナトリアでも認められるものです。
多くのピットによって破壊を受けていた発掘区を精査しますと、僅かではありますが石組みの土台の上に日干し煉瓦で構築された建築遺構、R483、R484、R485 等から構成される比較的大きな建築遺構を確認することができました。R483とR484は火災を受けた状態で検出されています。これらの北側にも、火災を受けたR482を確認しています(写真18,図版5)。
R482内から多くの炭化した小麦が検出されており、この遺構は穀物庫として使用されていたものと考えています。
R482の北壁であるW69の続きを精査しましたが、壁は西へと伸びておりますので、R482はかなり大きな建物の一部であったと考えています。
南区の建築遺構
南区では、二つの目的を持って調査を進めました。一つは前期、中期、後期鉄器時代の建築遺構の把握、二つ目は中期青銅器時代の石組みの貯蔵庫、後期青銅器時代の大形建築遺構を明らかにすることでした。
I〜III区、XXI〜XXII区、XXVII〜XXX区、XXXII区、XXXIV区、XL区、XLIV区、XLVI〜LIII区(図版1)
これらの発掘区では、既述したように前期、中期、後期鉄器時代、中期、後期青銅器時代の建築遺構の調査を行いました。
I〜III区、XXI〜XXII区(図版1)
I〜III区、XXI〜XXII区では後期鉄器時代の調査を行いました。後期鉄器時代は前7〜5世紀に年代付けられます。
I区とIII区でP1551、P1557を確認しています。これらの二つのピット内からは犬の骨が検出されました。犬の骨の上にはかなり大きな石が詰め込まれていました(写真19)。
犬の埋葬は、これまでのカマン・カレホユックの後期鉄器時代ではピット内で数多く確認されています。犬の埋葬の慣習は、ガラティアと深く結び付くと考えられていますが、ヨーロッパからアナトリアにこの慣習がいつ入り込んだのかは今後の一つのテーマにしたいと考えております。
II区とXXII区では1980年代に確認されているR3の石壁等を取り外すためにII区とXXII区の全体の掘り下げを行ったところ、R3の側で半地下式形態のR253を確認しています(写真20)。R253の一部はR3の直下に位置していることを考えますと、R253はR3より一時期古いものと考えられます。
XXI区とXXII区では、2017年に確認されているXXVIII区とXXXX区の後期鉄器時代のR229は、R232の一部を破壊しています。ただ、R232の一部が破壊されているにも関わらずその保存状態は良好と云えます。
2019年の調査では、R232のプランを明確にするためにI区とIII区で調査を行いました。その結果、R232は東西、南北の石壁が約10メートルを超しており大形の建物であることが明らかとなりましたし、建物の床面は石敷きになっていることも確認されました(写真21)。その石敷きはW18、W21に沿って約2.5メートル幅で発見されていますが、中央部からは石敷きが見つかっていません。石敷きは南北に渡って除去された形で、これはR232の直上で確認されているピットによって破壊されたとは考えられません。
XL、XLIV、XLVI〜XLVII区(図版1)
XL、XLIV、XLVI〜XLVII区では、前8世紀の中期鉄器時代、第IIc層の建築遺構について調査を進めました。
南区の中期鉄器時代の建築遺構は、その直上で検出されている後期鉄器時代の建物が建設される際、ピットによって破壊を受けているにも関わらず、大形の建物を示すプランが確認されました(写真22)。
第IIc層は、南区では2期に分かれることがこれまでの調査で明らかになっています。第IIc-1層の建築遺構は半地下式が中心であるのに対して、第IIc-2層の建築遺構は南北軸とする多室の大形の建物です。これから考えますと2019年に調査を進めたR179は、第IIc-2層に帰属するものと思います。
XLIX、XLVIII区(図版1)
XLIX、XLVIII区では、前11〜9世紀に年代付けられる前期鉄器時代の調査を行いました。この2発掘区では第IIc-2層の大形で矩形の貯蔵庫、R89、R183が以前の調査で確認されています(写真23)。
この二つの貯蔵庫の壁は石造りでかなり堅固なもので、これらの貯蔵庫は半地下式になっており建設させる際には、第IIc-2層直下の前期鉄器時代の第IId層の遺構はほとんど残存していないと考えていました。
これに関しては2018年の調査で、二つの貯蔵庫の床面の直下で第IIIb層に年代付けられる円形遺構、建築遺構が確認されましたので、予想通りの結果が出たと云えます。
しかし、今回の調査で二つの貯蔵庫の間に挟まれた場所、つまりこれらの貯蔵庫が建設される際に破壊から免れた場所で第IId層である前期鉄器時代のR241等を確認することが出来ました(写真24)。
LI区〜LII区、XXVII区、XXIX区、XXXII区(図版1)
LI区〜LII区、XXVII区、XXIX区、XXXII区では、後期青銅器時代、第IIIa層、ヒッタイト帝国時代の大形建築遺構の調査を行いました。
この建築遺構に関しては、2016年以来調査を進めているもので、この三年間の調査で出土している第IIIa層のヒッタイト帝国時代の大形建築遺構の調査を継続して行いました。2019年の調査の目的としてこの大形建築遺構の機能を解明することもありました。
2019年の調査でも、この大形建築遺構の中心部分を占めているR234を取り囲む形で確認されているLI〜LII区、XXXII、XXXIV区のR216〜R218、R220、R250〜R251の小部屋の調査を行いました(写真25,図版6)。
LI区〜LII区で確認されている小部屋の南壁、W33に附属しているR218とR250の間で水路が認められました(写真26)。この水路を観察しますと南側へ傾斜しています。その水路は中央部のR234へとは通じていません。つまり、W33が構築される際に北側に延びる水路は破壊された可能性は高いと考えています。
それから推察しますと、R234の北側で確認されているR216〜R218等の小部屋は、中央部で見つかっているR234より一時期前のものと考えられます。つまり小部屋に附属する水路の出土状況—水路の床面には石敷きと砂が認められています-からしますと、R234が構築される際に小部屋の南側部分が取り外された可能性はあります。これらを総合しますとこの第IIIa層の大形建築遺構は、換言しますと2期に渡って建設されたものと考えています。
また、W33の西側に延びることがXXXIV区で明らかになっておりますし、R245の西壁のW41に附属する形でXXXII区とXXXIV区で小部屋と考えられる遺構が確認されています。来シーズンはこの小部屋の発掘調査を行う予定です(写真27)。
R234、R245を取り囲まれる形で小部屋が検出されていることなどから、この大形の建築遺構は私的なものではなく公共性の帯びた建物であった可能性は極めて高いと考えています。この大形建築遺構と類似するものはヒッタイト帝国の都ボアスキョイ、帝国時代の都市のアラジャホユック、マシャットホユックでも確認されており、それらは神殿、あるいは宮殿との報告がなされています。これらの報告を一つの手掛かりにカマン・カレホユック出土の南区の第IIIa層の大形建築遺構の機能を考える必要があります。
R234、さらにその南側で確認されているR245の東側は、既述した第IIc-2層のR183によって完全に破壊されていますが、図面上ではある程度復元は可能と思います。
XXVII区のR234からは石製印章(写真28)、R245の床面からはヒッタイト帝国時代の典型的な皿形土器(写真29)が出土しています。またLII区のP1595からは中期青銅器時代に年代付けられる半浮き彫り付きの土器片(写真30)、石製印章(写真31)が出土しています。
XLVIII、XLIX区(図版1)
カマン・カレホユックの中期青銅器時代では、アッシリア商業植民地時代—第IIIc層とヒッタイト古王国時代—第IIIb層の2文化層を確認しています。前者は前20〜18世紀、後者は前17〜16世紀に年代付けられています(図版2)。
2018年の調査では、XLVIII区、XLIX区でP1517、P1529が第IIc-2層の半地下式の貯蔵庫の床面直下から検出されており、2019年の調査ではP1517の発掘調査を行いましたが、ピットは石組みで堅固に構築されておりますが、床面はまだ確認されていません。これまでP1517は4メートルの深さになっていますが、おそらく貯蔵庫に使用されていたものと考えています。
このP1517内からは兎形のリュトン(写真32)が出土しています。
遺跡保存について
第34次カマン・カレホユック調査は、7月、8月の約2ヶ月間の発掘を行った後、出土した展示に叶う遺物をカマン・カレホユック考古学博物館に納め査察官は研究所を離れました。その後、カマン・カレホユック考古学博物館と共に遺跡保存の作業を行いました。
1989年に植栽したポプラ、柳を8月に伐採(写真33)、カマンで製材したものを用いて北区に保護屋根を架ける作業を行いました(写真34)。南区は、ジオテックを使い発掘区のコーナーの保存を行いました(写真35)。
第34次発掘調査出土遺物整理
出土遺物に関する整理作業は、第11次ヤッスホユック発掘調査が終了した後、12月初頭から開始をしました。
遺物整理は、カマン・カレホユック、ビュクリュカレ、そしてヤッスホユック出土の順に行いながら、整理作業は、完形の遺物の実測(写真36)、そして土器の修復作業(写真37)を行っていますが、これらの作業も2020年の3月末までには完了することになっています。
謝辞
第34次カマン・カレホユック発掘調査は、出光文化福祉財団、JKA、住友財団、文化財保護・芸術研究助成財団、千葉工業大学からの助成によって進めることが出来ました。誌上を借りて厚くお礼を申し上げます。