ビュクリュカレ

松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

第11次ビュクリュカレ遺跡発掘終了報告(2019年)

図 1[クリックで拡大]

図 1[クリックで拡大]

本年度の発掘調査は、文化観光省より査察官として派遣されたコンヤ博物館学芸員のセヴギ・ゲルチェックさんと共に2019年4月29日から7月1日まで実施しました(図1)。セヴギさんは以前アナトリア考古学研究所が開催した博物館セミナーに参加されており、さらにそれ以外にも何度も研究所を訪問されていたこともあり、とてもスムースに調査を進めることが出来ました。特に遺跡の1級指定範囲拡張のために予定している試掘に必要な事務処理では大変ご尽力いただきました。

図 2[クリックで拡大]

図 2[クリックで拡大]

本年度の調査目的

図 3[クリックで拡大]

図 3[クリックで拡大]

2009年度に始まったビュクリュカレ遺跡の発掘調査では岩山の頂上部、城塞区で発掘を続けており(図2)、これまでに前3千年紀の前期青銅器時代からオスマン時代に至る文化層を確認しています。本年度は、城塞区の4つの地域においてそれぞれ異なる目的で発掘調査を行いました(図3)。さらに都市部において地中探査調査を行いました。

今年度の発掘の目的は以下のとおりです。









1.カールム時代の巨石建築遺構の発掘調査

図 4[クリックで拡大]

図 4[クリックで拡大]

図 5[クリックで拡大]

図 5[クリックで拡大]


図 6[クリックで拡大]

図 6[クリックで拡大]

ビュクリュカレ遺跡で出土したカールム時代に属するアナトリアで最古の巨石建築遺構は、放射性炭素年代測定により前2000年頃、つまりカールム時代のはじめに築造され、1890年頃に一度消失し、100年近く放棄された後の前1700年頃再建され、古ヒッタイト時代に相当する前1600年前後に焼失したことがわかっています(図4)。特に2回目の居住期間はカールム時代からヒッタイト時代への移行期に相当していますが、その時期の遺跡の調査は十分行われていないのが実情です。カールム時代に商業の一大中心地であったキュルテペ/カーニシュは前1714年頃に焼失しています。そしてヒッタイトの都市ボアズキョイ/ハットゥーシャは前1650年頃に首都であったとされています。ちょうどその間の時期にビュクリュカレ遺跡の巨石建築遺構では居住されていたとの調査結果が出ています。それ故に、この巨石建築遺構の調査は今後きわめて重要な資料を提供する可能性を秘めています。昨年度の発掘調査では、西側の広がりを理解できました。本年は、2010年にガラス容器が出土した部屋の残りの部分を発掘し、床面から青銅製の槍先等の遺物(図5)に加えて、同年に出土したガラスペンダントの欠けていた破片を見つけました(図6)。

図 7[クリックで拡大]

図 7[クリックで拡大]

今年はまた、この焼土層を覆っていた鉄器時代の層から「匿名タバルナ/タバナンナ印章」と呼ばれるヒッタイト王あるいは王女の印影が出土しました(図7)。この種の印影出土はこれで2例目です。この印章はヒッタイト王の名前の代わりに王の先祖の名、あるいは王の称号であるタバルナ/タバナンナの文字が刻まれている王の印章で、古ヒッタイト時代に使われたものです。「匿名タバルナ/タバナンナ印章」は、当然ですがヒッタイトの首都ハットゥシャで最も多く出土していますが、それ以外の遺跡では1点ずつ出土していることから、ビュクリュカレ遺跡一箇所で複数点の出土の意味は大きいのではないかと考えます。

2.ヒッタイト時代層の発掘

図 8[クリックで拡大]

図 8[クリックで拡大]

図 9[クリックで拡大]

図 9[クリックで拡大]

城塞区北端部(図3、地域 3)において継続している発掘では、ようやく後期鉄器時代文化層の発掘を終え、その下に存在するヒッタイト時代層の発掘に着手しました。ここではヒッタイト時代の中でもどの時期の文化層が出現するのか、と期待と不安を持って調査を行いました。これまでの調査では後期鉄器時代の建築R182に壊された壁W300を含むヒッタイト時代の焼土層を確認し(図8)、そこからは前14世紀頃のヒッタイト語楔形粘土板文書片が一点出土していますが、今年掘り進めた文化層はその焼土層の下に位置しているため、それよりも古い前14世紀以前の古ヒッタイト時代に相当すると考えていました。それは、カマン・カレホユック遺跡北区では僅かしか確認できていないヒッタイト帝国期の文化層を、この遺跡で調査したいという研究の遂行が困難になることを意味していました。

図 10[クリックで拡大]

図 10[クリックで拡大]

最初に焼土層に属する壁W300を外すと、その中から青銅斧の鋳型が出土しました(図9)。さらに掘り進んでいくと、木材を多用した日干し煉瓦の壁で作られた建築遺構が現れてきました(図10)。火災にあっていないため、木材部分は朽ちて空洞(P447, P448)ができていました。まだごく一部しか発掘が出来ていませんが、そこで確認された部屋の覆土から円盤型のスタンプ印章が出土しました(図11)。その両面に文様が描かれており、片面には幾何学文が、反対面には4足動物と植物が線描されています。この印章に匹敵する遺物は、ヒッタイトの首都ボアズキョイ出土の遺物の中にあり、ベーマー博士の印章研究によれば、この種の印章はヒッタイト帝国後半に特徴的なものです。つまり、印章の出土した建築層はヒッタイト帝国期後半に年代付けられることになり、この地点にはさらにヒッタイト帝国期の建築層が広がっている可能性を示してくれました。   

図 11[クリックで拡大]

図 11[クリックで拡大]

  

このように、本年度の調査により、これまで半ば諦めかけていたヒッタイト帝国期の文化層がまだまだ破壊されずに眠っていることが明らかとなりました。今後この地域での調査を通して、ビュクリュカレ遺跡ヒッタイト帝国期時代の歴史解明への光が見えてきました。   


3.後期鉄器時代城壁外斜面の発掘(図12)

  

この地区での発掘調査の目的は、一方では後期鉄器時代城壁W11をその基盤まで発掘し、その建築構造、技術を理解することです。もう一方で、この城壁には上部に存在していた古い文化層を削った土が城壁の内外に埋土として使われたようで、これまでにこの埋土の中からは大量の前2千年紀の遺物が出土しています。そこでこの埋土を発掘し、出土する遺物を調べることで、かつてここに存在し、その後破壊されてしまった文化に関する情報を得ることができます。特に前2千年紀前半のアッシリア商業植民地時代、それに続く後半のヒッタイト時代の極めて重要な遺物が出土しています。   

図 12[クリックで拡大]

図 12[クリックで拡大]

図 13[クリックで拡大]

図 13[クリックで拡大]

  

後期鉄器時代城壁の調査では、ようやく城壁の底部に達することが出来、当時の地表面を確認できました。この城壁は高さ約4mが残存しており、5段に積み重ねて築造されていました(図13)。一段ごとに丸太を城壁に直交する形で平行に並べて敷き、その上に次の段の石壁が構築されています。石壁は一段作るとそれに直交する一列の石壁を多数作りながらそこを土で埋めており(図12参照)、残存していませんが、この礎石の上に日干しレンガの壁がそびえていたと推測されます。また現存する壁は古い壁を修復して作られたものであることも理解されました。この城壁の築造年代についてですが、一昨年の城壁内の調査において層序的に同時期と見なされる建築遺構を確認することが出来ました。問題なのはその部屋がどの文化に属するかです。その部屋の北側の両隅には掘り込んだかまどが存在しました。このタイプのかまどはこれまで見たことがないものです。そしてその床面上からは土製の馬に乗った人物像が2体出土しました(図14)。しかしこの土偶についてもそれがどの文化のものか理解が出来ませんでした。ところがその部屋は何回か改修され使われており、その2番目の床面から骨製円形ボタン状装飾品が出土しました(図15)。そこに刻まれていた動物文装飾は黒海の北岸地域を中心に居住していた騎馬民族といわれるスキタイ人のそれと同一のものです。ちょうどスキタイ人がアナトリアに侵入した時代に相当する可能性が出てきました。アナトリアにおけるスキタイ人の研究をしているセリム・アダル博士のアッシリア文献の研究によると、彼らはアナトリアに首都と呼ばれるような都市を作っていました。ところが彼らの作った都市はこれまでのところ見つかっていません。もしかするとここビュクリュカレ遺跡の城壁で囲まれた居住址が彼らのものであった可能性があるのか、ということも考慮に入れ、この文化層の研究を進めていこうと考えています。   

図 14[クリックで拡大]

図 14[クリックで拡大]

図 15[クリックで拡大]

図 15[クリックで拡大]

図 16[クリックで拡大]

図 16[クリックで拡大]

  

今年度の調査でも多くの遺物が出土しましたが、特にアッシリア商業植民地時代やヒッタイト時代の印影(粘土の塊に印鑑が押されたもの)が多数出土しました(図16)。その中には以前にも出土しているタルフンダヴィヤという女性の名がルヴィ語象形文字で刻まれた印影があります(図17)。同名が刻まれた少なくとも3種類の異なる印章が出土していることから、この女性はこの都市に居住していたと推測しています。またルヴィ語象形文字で「ハットゥーシリ」の名が刻まれた印影が出土しました(図18)。ヒッタイト王国の最初の王とされるこの名前が出土したことで現場は色めきだったのですが、解読したロンドン大学のヒッタイト学者マーク・ウィーデン博士によると、ここにはヒッタイト王の称号である「大王」の文字がないため、ヒッタイト王とは別の人物のものであること、さらに当時は王の名にちなんで同じ名前が頻繁に用いられていたようだとのことでした。   

図 17[クリックで拡大]

図 17[クリックで拡大]

図 18[クリックで拡大]

図 18[クリックで拡大]

  

今年度調査の最大の成果の一つと言えるのは楔形粘土板文書片の出土です(図19)。これはビュクリュカレ遺跡で5点目の出土となります。城壁の外側では、そこに盛られた埋土を発掘しており、この土は遺跡頂上部のヒッタイト時代の層を壊して運んできたと考えています。埋土の中から出土するこれらの遺物は、当時使われていた場所からの出土ではないため、そこから得られる情報は限定されます。それでも、粘土板文書の発見は大きな意味を持ちます。なぜなら粘土板文書には唯一無二の情報が刻まれているからです。   

図 19[クリックで拡大]

図 19[クリックで拡大]

  

今回の粘土板文書も、もともとは縦25cm程の大型の粘土板文書の破片なのですが、解読を進めると特別に大きな意味を持っていました。それは今回の粘土板文書がヒッタイト語ではなく、フリ語で書かれていたからです。ヒッタイト語の粘土板でさえアナトリアではこれまでにヒッタイトの首都ボアズキョイのほか、一時首都であったとされるオルタキョイ、マシャットホユックに加え、最近ではオイマアーチ、ウシャック、クシャックル、カヤルプナル、エスキヤパル、そしてビュクリュカレで出土していますが、フリ語の粘土板の出土例はさらに限定されており、アナトリアではボアズキョイ、オルタキョイ、カヤルプナルという3遺跡でのみ出土しています。そこに今回ビュクリュカレ遺跡が加わったのです。   

  

フリ語は前3千年紀に北シリアに出現したフリ人によって用いられた言語です。この言語と同じ系統に属すると考えられているのは、後の前1千年紀に東アナトリアのヴァン湖周辺で栄えたウラルトゥ王国の言語のみです。この文字を用いたフリ人が北シリアに建てた強国がミタンニ王国でヒッタイトと覇権を争ったのですが、未だその首都ワシュガンニは見つかっていません。そのミタンニ王国で使われていた言語であるフリ語の粘土板文書がなぜヒッタイトの国で出土するのかというと、エジプトとカデシュの平和条約を結んだハットゥーシリIII世がフリ族の国キズワトナからプドゥへパを王女として迎え入れ、それによりフリの信仰が強くヒッタイトに影響を及ぼしたとされます。ハットゥーシリIII世のために作られたとされるヤズルカヤの岩壁画にはほぼすべてフリ人の信仰した神々が刻まれています。そこではフリ人の宗教儀礼が執り行われ、そういった儀礼についてフリ語で粘土板に刻まれたようです。当時フリ語を読み書きできた人は限られていたはずです。ビュクリュカレ遺跡でフリ語の粘土板文書が出土したということは、この古代都市がヒッタイトの王権が取り入れたフリ人の宗教儀礼を執り行った重要な宗教都市の一つであった可能性を示唆しています。   

  

現在、ビュクリュカレ遺跡出土のフリ語粘土板はウィーデン博士が解読研究中ですが、シャウシガ神(イシュタル神のフリ語名)とそれに関連する神々の名が列挙されているとのことで、内容的にも宗教儀礼と関連している可能性が高いようです。それ以外にも川の名前、都市名が書かれていたようですが、肝心の都市名の部分は欠けているそうです。「zu」で始まる川の名前が書かれているとのことですが、これまでに「zu」で始まる川の名は2つ知られているそうです。その一つがワシュシャナとネナッサという二つの都市の境を流れるズリヤ川です。この二つの都市はビュクリュカレ遺跡の古代都市名候補として挙げられている都市であることから、いよいよビュクリュカレ遺跡古代都市名同定に近づいてきたという期待が高まってしまいます。さらに、このフリ語楔形文字で書かれた宗教的粘土板文書の出土により、ビュクリュカレ遺跡にあった古代都市が、宗教的に重要な意味を持っていた都市の可能性が出てきたことから、地名考証研究がますます面白くなってきました。地名考証研究については同志社大学のヒッタイト学者山本孟博士に参加してもらっています。彼はヒッタイト文書を研究し、その中に登場する都市の中から、その立地や都市の性格の点からビュクリュカレ遺跡に相当する可能性のあるものを調べています。   


4. 城塞区南部の調査

図 20[クリックで拡大]

図 20[クリックで拡大]

図 21[クリックで拡大]

図 21[クリックで拡大]

図 22[クリックで拡大]

図 22[クリックで拡大]

  

城塞区の南部においては、カールム時代の巨石建築遺構の南側の状況を理解するためと、その下に存在する前期青銅器時代の文化層を調査するために、この地域のオスマン時代、ヘレニズム時代、後期鉄器時代の文化層の調査を行いました。その結果、これらの時代に属する建築遺構(図20:オスマン時代、ヘレニズム時代;図21:オスマン時代;図22:後期鉄器時代)とそれらに関連する遺物が出土しました(図23、24)。城塞区南端部においては前期青銅器時代後期に属する文化層を確認しており、それに伴うと考えられる巨石壁の一部が出土しています。この文化層をさらに調査することでカールム時代以前に既に巨石建築物が作られていた可能性を調査したいと考えています。   

図 23[クリックで拡大]

図 23[クリックで拡大]

図 24[クリックで拡大]

図 24[クリックで拡大]

















5. 都市部の地中探査

  

本年度の地中探査の目的は、都市城壁の外側に集落が続いているかどうかを確認することでした。これはビュクリュカレ遺跡の保護活動と関連しています。今日の発掘調査では、遺跡調査の一方で遺跡を保護し、将来に渡ってこの遺跡が守られるようにしていく必要があります。これまでのメソポタミアにおける発掘調査は、ごく僅かな例外を除けばある意味堀りっぱなしで、発掘調査のあとは廃墟と化していました。   

  

これに対して、いい意味でも悪い意味でも新たな取組を始めたのがトルコの文化観光省です。トルコは遺跡を観光資源として位置づけ観光地化しようとしています。昨年度はトルコ発掘調査隊の中から年間を通して発掘する遺跡を選定し、発掘をサポートする制度を作りました。これには観光地化が可能な遺跡が選ばれているようで、調査というよりはむしろ保存、修復、復元に力を入れる方向で資金援助がなされているとのことです。またここ数年は遺跡を公園化し、見学できるようにするよう通達が出されています。   

  

また保存、修復のための費用については従来の研究調査費には含まれていませんが、その作業は発掘作業と同じくらいの費用と日数がかかります。それ以上に保存、修復というのは一つの研究分野であり、専門家に加わってもらう必要があります。これらの作業をこれまでの研究の枠組みの中で実現するのは非常に困難で、これに対しては新たな研究の枠組みを作り出す必要があります。今は次の枠組みを作り出すまでの過渡期なのかもしれません。こうした流れの中で試行錯誤が繰り返され、遺跡保存の最良の解決策が生まれてくるのかもしれません。   

  

ビュクリュカレ遺跡は1989年に遺跡登録されました。その際に岩山部は1級地域として登録されたのですが、周辺の都市部は2級地域とされました。これまでに行った地中探査により2級に登録された地域に都市部の遺構が広がっていることが確認され、調査結果を添えてその地域を1級に昇格させるよう文化観光省に申請しました。その結果、希望通りに1級に変更されたのですが、今後2級の指定は随時なくしていく方針とのことで、2級に指定されていた残りの部分が3級に格下げされてしまいました。3級に格下げされた部分は、文化観光省の許可を得れば建物を建築したりする開発が可能となります。将来的に公園化して保存する遺跡の都市城壁のすぐ脇まで開発されることはなんとしても防がなければなりません。そこで改めて3級部分を1級に格上げしてもらうように申請を出したところ、博物館と共同で試掘を行い、その結果を再検討するとの返事が届きました。   

  

そこで今年度の調査では3級に指定されている部分において熊谷和博博士による地中探査を実施し、遺構確認を行いました。その結果、都市城壁の外側に多くの建築遺構が確認でき、さらに30mにも及ぶ大型の建物の存在が明らかになりました(図25、26:緑線で囲まれた部分)。この結果には私達も驚かされました。都市壁の外側での表採調査ではほとんど土器片が採取されず、これほど大型の建築物が存在するとは考えていなかったのです。都市部の表採調査では採取された土器片の殆どが前2千年紀のものであったことから、調査で確認できたこの地域に広がる遺構はヒッタイトあるいはその前のカールム時代のものと考えており、それが城壁の外にまで広がっていると推測しています。この結果は当時の都市構造を理解する上でもまったく新しい知見を提供してくれました。従来、城壁内に都市の機能がすべて収まっていると考えていたものが、実は城壁の外でも居住が行われていたことが明らかになったからです。次の問題は城壁内外それぞれでどんな機能を持った建物が存在していたかを理解することです。それによって都市構造が理解されてきます。   

図 25[クリックで拡大]

図 25[クリックで拡大]

図 26[クリックで拡大]

図 26[クリックで拡大]

  

今回の1級地域の拡大申請は一旦却下された、と肩を落としたのですが、翌々考えてみると、これは一つのチャンスかも知れないと考えを改めました。というのもビュクリュカレ遺跡の都市部は私有地のため、調査を行うには予め土地を国有化しなくてはなりません。トルコ隊の調査では国が国有化の費用を負担してくれますが、外国隊の調査では土地の国有化費用は調査隊が負担しなければなりません。ビュクリュカレ遺跡でも将来的に都市部の発掘調査を行おうと計画しているのですが、現在その費用をどうやって捻出するかを模索中です。資金を集めるまでに時間を要する上に、国有化に際しては様々なプロセスがあるため、実際に国有化が完了するのは5年あるいはそれ以上先になるでしょう。それまでじっと待っていなければならないのですが、この試掘の許可は千載一遇のチャンスが訪れたと言えます。つまり公に私有地において試掘調査が許可され、今年の地中探査結果に基づき、大型の建築遺構の存在する地域を試掘することが可能になったからです。来年度はこの地域の調査も行い、都市部の建築遺構の年代を特定し、さらには都市構造の理解を深めたいと考えています。   

おわりに

今年度の発掘調査は、今後の調査に期待を抱かせるような成果を挙げて無事終了することが出来ました。特にフリ語楔形粘土板文書の出土はこの遺跡の新たな一面を示してくれました。次年度の調査では従来の調査を継続するとともに都市部の調査を行い、新たな知見を得ることができると期待しています。

図 27  2019年度発掘隊[クリックで拡大]

図 27 2019年度発掘隊[クリックで拡大]

謝辞

ビュクリュカレ遺跡発掘調査は、日本学術振興会、科学研究費助成事業 (JSPS科研費 JP19H01351)の助成、千葉工業大学からの助成を受けて行われています。厚く御礼を申し上げます。

(注記:本研究の成果は著者自らの見解等に基づくものであり、所属研究機関、資金配分期間及び国の見解等を反映するものではありません)

科研費